第三話 残響
由依が目を覚ましたとき、部屋の照明はまだ落ちたままだった。
腕時計を見ると、午前四時を少し回っていた。隣で黒木涼が静かに息をしている。胸板が規則正しく上下し、無防備な横顔が浮かんでいる。昨夜まで他人だった男。今は、自分の身体の熱をまだ残したまま、すぐ傍にいる。
由依はゆっくりと上半身を起こした。太ももの内側に、微かな痛みと熱が残っている。シーツに染み込んだ甘い匂いが、昨夜のことを否応なく思い出させる。黒木に抱かれながら上げた声、名前を呼ばれた瞬間の甘い疼き、埋め尽くされた感覚——すべてが、まだ身体の芯に残っていた。
後悔は、予想より薄かった。
代わりに押し寄せてきたのは、奇妙な静けさと、強い現実感だった。
「……起きてたのか」
黒木が目を開けた。声は低く、まだ寝惚けている。由依は反射的にシーツで胸を隠した。黒木はそれを見て、小さく苦笑する。
「今更、隠さなくてもいいだろう」
「……習慣よ」
由依はそう答えながらも、頰が熱くなるのを感じた。黒木は上半身を起こし、由依の肩に軽く手を置いた。その触れ方が、昨夜の激しさとは違う、奇妙な優しさを帯びている。
「帰るか? まだ時間はあるが」
「ええ。夫が……朝には戻ってくる可能性があるから」
言葉にした瞬間、剛の顔が脳裏に浮かんだ。優しくて、忙しくて、自分を「理解しているつもり」の夫。昨夜、別の男に身体を許した事実が、急に重くのしかかる。由依は唇を噛んだ。
黒木は由依の表情を読んで、手を離した。
「無理に aguant するな。俺も、妻がいる」
「わかってる。だからこそ……」
由依は続きを飲み込んだ。
『だからこそ、また会いたい』という言葉が、喉まで出かかっていた。
二人は無言で服を着た。昨夜の乱暴さとは対照的に、動作は丁寧で、どこかぎこちない。黒木が由依のコートの襟を直してくれたとき、指先が首筋に触れて、由依は小さく身を震わせた。
「また、来るか?」
黒木が扉の前で尋ねた。声は平坦だったが、目は由依を捉えて離さない。
由依は数秒、沈黙した。
そして、小さく頷いた。
「……来ます。たぶん」
黒木はそれ以上何も言わず、ただ一度だけ由依の唇に短く触れた。浅いキス。なのに、胸の奥が熱くなった。
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店を出ると、雨は小降りになっていた。
佐伯がカウンターから二人を見送る。表情は変わらず穏やかだったが、由依にはその視線が、すべてを見透かしているように感じられた。
「お気をつけて。また、いつでも」
その言葉が、祝福にも呪いにも聞こえた。
タクシーに分乗して帰宅する途中、由依は窓の外の濡れた街を見つめ続けた。身体の奥に残る黒木の感触が、簡単には消えない。剛が帰宅して「おかえり」と微笑んだとき、自分は普通の顔で答えられるのだろうか。
一方、黒木もまた、車の中で同じことを考えていた。
完璧な妻の顔と、昨夜の由依の甘い声が、交互に浮かんで消える。どちらも捨てられない。どちらも、本当の意味では満たしてくれない。
スマホの画面に、由依からの短いメッセージが届いたのは、夜明け前だった。
『昨夜のことは、忘れられない』
黒木はしばらく画面を見つめた後、短く返信した。
『俺もだ。次は、いつにする?』
送信ボタンを押した瞬間、彼は自分がまた、深い場所へ足を踏み入れたことを理解した。
雨は、完全には止まなかった。




