第一話 招待状
雨は、止むことを知らなかった。
神崎由依(32)は、黒のトレンチコートの襟を立てたまま、神田の雑居ビルが立ち並ぶ裏通りを歩いていた。ヒールの音が濡れたアスファルトに小さく響く。スマホの画面には、たった一文のメッセージが残っていた。
『今夜、来ますか? Café Liminal』
差出人不明。既読もつかない。
それでも由依は、自分でも説明のつかない衝動に従って、ここまで来てしまっていた。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
先月、仕事で少し接点のあった先輩編集者が、酔った席でこう漏らしたのだ。
「あそこはな……普通の店じゃない。結婚してる人間が、自分を忘れに行く場所だ」
その言葉が、由依の胸に棘のように残った。
結婚五年目。
夫の剛は大学病院の外科医で、帰宅はほとんど深夜。休日も緊急手術で呼ばれることが多い。最初の二年間はまだ互いを求めていたが、今では触れ合うことさえ稀になった。セックスも、ここ半年以上ない。剛は優しい。否定もしない。ただ、「疲れてる」と微笑むだけだった。
由依は仕事では評価されていた。担当した書籍が賞を取ったこともある。それでも夜、一人でワインを傾けていると、自分が「女」として存在している実感が、ひどく薄れていくのを感じた。
ガラス扉の横に、小さな真鍮のプレートが掛かっている。
『会員制 Café Liminal』
看板はない。光もほとんど漏れていない。
由依は一度、深く息を吸った。そして、扉を押した。
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店内は予想以上に静かだった。
暖かい色の間接照明だけが、空間をぼんやりと照らしている。ジャズが小さく流れていた。カウンターの向こうで、四十代半ばの男が無言でグラスを磨いている。目元に深い影があり、穏やかな微笑みを浮かべているが、どこか底が知れない。
「神崎由依さんですね。初回です」
由依はわずかに身構えた。
「……どうして私の名前を知っているんですか?」
「紹介者から、事前に伺っています。ここでは名前と、本当の欲求だけを預けていただければ結構です。他のことは聞きません」
佐伯——その男はそう名乗った。声は低くすんなりとしていて、不思議と警戒心を解かれるような響きがあった。
由依は奥のボックス席に腰を下ろした。コートを脱ぐと、黒のニットワンピースが身体に沿っている。雨に濡れた髪が頰に張り付き、普段のきちんとした編集者の顔とは少し違って見えた。
佐伯が水の入ったグラスと、小さな黒いメニューを置いた。
ドリンクの値段ではない。時間と「コース」が記されている。
由依の指先が、メニューの端を小さく震わせた。
そのとき、店の奥の扉が開いた。
男が一人、ゆっくりと現れた。
三十代半ば。灰色のコートを着て、無精髭を少し伸ばしている。目元に疲れがにじんでいるが、視線は鋭い。左手の薬指には、長年嵌めていた結婚指輪の跡がうっすらと残っていた。
佐伯が静かに言った。
「今夜の相手です。黒木涼さん」
男——黒木は由依の正面に座った。距離は近く、互いの吐息がわかりそうな位置だった。
二人はしばし、無言で相手を見つめた。
黒木が先に口を開いた。声は低かった。
「あなたも、同じ理由で来たのか」
由依は即座に答えられなかった。喉が渇いている。
ようやく絞り出すように言った。
「……理由なんて、ちゃんとしたものはないわ。ただ、夜が長すぎて」
黒木は小さく苦笑した。
「俺もだ。妻は完璧な人だ。何も文句のつけようがない。それでも、息が詰まる」
会話はそこで一度途切れた。
ジャズの音と雨音だけが、店内を満たしている。
佐伯が二人の間に、黒い鍵を静かに置いた。
「三号室が空いています。強制は一切しません。ただ——ここに足を踏み入れた以上、簡単には戻れなくなることは、覚悟してください」
由依と黒木は、同時にその鍵を見た。
由依の心臓が、痛いほど鳴っていた。
怖い。逃げたい。それなのに、身体の奥が熱を持っている。
黒木が鍵に手を伸ばし、由依を見た。
「どうする?」
由依は唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
雨は、まだ止んでいなかった。




