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婚外カフェ  作者: 蒼狐
第3部 夜の契約

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22/31

第一話 招待状

雨は、止むことを知らなかった。


神崎由依(32)は、黒のトレンチコートの襟を立てたまま、神田の雑居ビルが立ち並ぶ裏通りを歩いていた。ヒールの音が濡れたアスファルトに小さく響く。スマホの画面には、たった一文のメッセージが残っていた。


『今夜、来ますか? Café Liminal』


差出人不明。既読もつかない。

それでも由依は、自分でも説明のつかない衝動に従って、ここまで来てしまっていた。


きっかけは、ほんの些細なことだった。

先月、仕事で少し接点のあった先輩編集者が、酔った席でこう漏らしたのだ。


「あそこはな……普通の店じゃない。結婚してる人間が、自分を忘れに行く場所だ」


その言葉が、由依の胸に棘のように残った。


結婚五年目。

夫の剛は大学病院の外科医で、帰宅はほとんど深夜。休日も緊急手術で呼ばれることが多い。最初の二年間はまだ互いを求めていたが、今では触れ合うことさえ稀になった。セックスも、ここ半年以上ない。剛は優しい。否定もしない。ただ、「疲れてる」と微笑むだけだった。


由依は仕事では評価されていた。担当した書籍が賞を取ったこともある。それでも夜、一人でワインを傾けていると、自分が「女」として存在している実感が、ひどく薄れていくのを感じた。


ガラス扉の横に、小さな真鍮のプレートが掛かっている。


『会員制 Café Liminal』


看板はない。光もほとんど漏れていない。

由依は一度、深く息を吸った。そして、扉を押した。


---


店内は予想以上に静かだった。


暖かい色の間接照明だけが、空間をぼんやりと照らしている。ジャズが小さく流れていた。カウンターの向こうで、四十代半ばの男が無言でグラスを磨いている。目元に深い影があり、穏やかな微笑みを浮かべているが、どこか底が知れない。


「神崎由依さんですね。初回です」


由依はわずかに身構えた。


「……どうして私の名前を知っているんですか?」


「紹介者から、事前に伺っています。ここでは名前と、本当の欲求だけを預けていただければ結構です。他のことは聞きません」


佐伯——その男はそう名乗った。声は低くすんなりとしていて、不思議と警戒心を解かれるような響きがあった。


由依は奥のボックス席に腰を下ろした。コートを脱ぐと、黒のニットワンピースが身体に沿っている。雨に濡れた髪が頰に張り付き、普段のきちんとした編集者の顔とは少し違って見えた。


佐伯が水の入ったグラスと、小さな黒いメニューを置いた。


ドリンクの値段ではない。時間と「コース」が記されている。


由依の指先が、メニューの端を小さく震わせた。


そのとき、店の奥の扉が開いた。


男が一人、ゆっくりと現れた。


三十代半ば。灰色のコートを着て、無精髭を少し伸ばしている。目元に疲れがにじんでいるが、視線は鋭い。左手の薬指には、長年嵌めていた結婚指輪の跡がうっすらと残っていた。


佐伯が静かに言った。


「今夜の相手です。黒木涼さん」


男——黒木は由依の正面に座った。距離は近く、互いの吐息がわかりそうな位置だった。


二人はしばし、無言で相手を見つめた。


黒木が先に口を開いた。声は低かった。


「あなたも、同じ理由で来たのか」


由依は即座に答えられなかった。喉が渇いている。

ようやく絞り出すように言った。


「……理由なんて、ちゃんとしたものはないわ。ただ、夜が長すぎて」


黒木は小さく苦笑した。


「俺もだ。妻は完璧な人だ。何も文句のつけようがない。それでも、息が詰まる」


会話はそこで一度途切れた。

ジャズの音と雨音だけが、店内を満たしている。


佐伯が二人の間に、黒い鍵を静かに置いた。


「三号室が空いています。強制は一切しません。ただ——ここに足を踏み入れた以上、簡単には戻れなくなることは、覚悟してください」


由依と黒木は、同時にその鍵を見た。


由依の心臓が、痛いほど鳴っていた。

怖い。逃げたい。それなのに、身体の奥が熱を持っている。


黒木が鍵に手を伸ばし、由依を見た。


「どうする?」


由依は唇を噛んだ。

そして、ゆっくりと頷いた。


雨は、まだ止んでいなかった。

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