第十二話 影の外へ
地下のフロアは、怒号と足音で混乱していた。
零と和也が激しく組み合う中、警官たちが二人を引き離そうとする。雪乃が壁に背中を預けて震えていた。佐伯だけが、静かにすべてを見下ろすように立っていた。
澪は、その混乱の中心で、ゆっくりと前に出た。
「……やめて」
声は小さかったが、不思議と通った。
零が振り返る。和也も、血の混じった唇を拭いながら彼女を見た。
澪は二人の間に立ち、深く息を吸った。
「私は……もう、どちらにも行かない」
沈黙が落ちた。
零の目が鋭く細められる。
「何を言ってる」
「和也にも、零にも、ついていかない。私は、自分で選ぶ」
和也が掠れた声で言った。
「麗華……戻ってこい。全部水に流す」
零が低く、脅すように続けた。
「俺を捨てるつもりか。契約を破れば、代償がある」
澪は二人を見つめたまま、静かに首を振った。
「もう、誰かの所有物にはなりたくない。夫としても、男としても。……佐伯さんの『影の檻』の住人としても」
その言葉を聞いた瞬間、佐伯が初めて小さく笑った。
「ようやく、気づきましたね」
全員の視線が佐伯に集まる。
佐伯はゆっくりと前に出た。
「この店は、救済の場所でも、地獄の場所でもありません。
ただの『鏡』です。人は、自分の欲と弱さをここに映し出す。そして、その姿に耐えられなくなったとき、初めて本当の選択をする」
彼は澪を見た。
「あなたは、ようやくその段階に来ました。零さんも、和也さんも、結局はあなたを『自分のもの』にしようとしただけです。違いますか?」
零が歯を食いしばった。和也は何も言えなかった。
佐伯が続けた。
「契約の代償は、本来なら厳しいものです。しかし……今日に限り、特別措置を取ります。
霧島澪、あなたは地上に戻ってもいい。ただし、二度とこの店の扉は開きません。そして、白峰麗華としての痕跡も、完全には戻りません」
澪は頷いた。
「それでいい」
零が怒鳴った。
「俺を置いていくのか!」
澪は零の目をまっすぐ見た。
「あなたは、私を愛していたんじゃなくて、失いたくない『何か』を愛していただけよ。私も同じだった。だから……もう終わり」
和也にも、静かに言った。
「あなたも、私を愛していたんじゃなくて、『完璧な妻』という形を愛していただけ。私はもう、その形には戻れない」
二人の男は、何も言い返せなかった。
澪は佐伯に一礼した。
「ありがとうございました。そして、さようなら」
佐伯は穏やかに応じた。
「影の外で、どう生きるかはあなた次第です。うまくやるといい」
澪は振り返らずに、地下の階段を上がった。
雨は、すでに小降りになっていた。
地上の空気は冷たく、しかし確かに「外」の空気だった。
彼女は傘もささず、雨に濡れながら歩き出した。
行き先は、まだ決まっていない。
ただ、もう誰の檻にも入らないと決めた、それだけだった。
第2部 『地下の契約』 完




