第五話 選択の夜
地下の空気は重く、甘く、麗華の思考を溶かしていくようだった。
契約書のペンが、指の間で震えていた。零は黙って彼女の横に立ち、肩に手を置いている。温もりがあるのに、なぜか冷たく感じた。
麗華は目を閉じた。
頭の中に、様々な情景が浮かんでは消えた。
- 夫・和也の冷たい視線
- 広告代理店での自分のデスクと部下たち
- 毎晩一人で飲む高層マンションの夜景
- 零に犯されながら感じた、生きている実感
「……私、全部捨てられるかしら」
零が静かに答えた。
「捨てられないものを抱えたまま、ここには来られない。佐伯さんは、そういう人間を嫌う」
そのとき、階段の方から足音が聞こえた。
佐伯が戻ってきた。彼の表情はいつもより硬い。
「地上で、少し騒ぎになっています。白峰さんの夫の方が、店の近くをうろうろしているようです。探偵を連れている可能性が高い」
麗華の顔から血の気が引いた。
零が低く舌打ちした。
「早いな……」
佐伯は麗華に向き直り、静かに言った。
「時間がないようです。
今、ここでサインをすれば、私が地上の痕跡をすべて消します。夫の調査も、証拠も、すべて無効にできます。
ですが……迷うなら、今すぐ地上に戻った方がいい。もう二度と、この扉は開きません」
麗華の視界が揺れた。
夫の顔、会社の顔、世間体、失うものすべてが脳裏を駆け巡る。
零が彼女の手を強く握った。
「俺と一緒に来い。新しい人生を、俺と生きよう」
その瞬間、麗華は決めた。
震える手でペンを走らせ、契約書にサインをした。
白峰麗華という名前が、墨で塗りつぶされるように、新しい署名に変わった。
佐伯が小さく頷いた。
「ようこそ、本当の『外』へ。
これより、あなたは『霧島 澪』となります」
零が微笑んだ。
「俺は『黒崎 零』だ。これからは、よろしくな……澪」
麗華——いや、**澪**は深い息を吐いた。
罪悪感と解放感が、胸の中で激しく混じり合っていた。
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一方、地上では——
白峰和也が、雨に濡れながら店の前を歩いていた。
探偵が傘を差し出しながら報告する。
「奥様は確かにこの店に何度も通っています。ただ……店自体がかなり特殊で、会員制のようです。中に探りを入れるのは難しそうです」
和也は店の扉を睨みつけた。
「構わない。明日、もっと本格的に調べさせる」
そのとき、店の中から佐伯が出てきた。
「何か、ご用でしょうか?」
和也は佐伯を睨みつけたが、佐伯は穏やかな笑みを崩さなかった。
二人の視線が、雨の中でぶつかり合った。
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地下に戻った佐伯は、澪と零に静かに告げた。
「地上の夫は、まだ諦めていないようです。
ですが、もう心配はいりません。
あなた方は今……この『影の檻』の正式な住人です」
澪は零の胸に顔を埋めた。
これから始まる新しい人生が、
本当に自由なのか、それとももっと深い檻なのか——
彼女はまだ、知らなかった。




