第三話 亀裂
翌日の夜、麗華がマンションに帰ると、夫・和也がリビングのソファに座って待っていた。
珍しいことだった。和也はいつも帰宅が遅く、週末以外は顔を合わせる時間すら少ない。テーブルの上には、ワインのボトルと二つのグラスが置かれていた。
「おかえり。少し、話がある」
夫の声は穏やかだったが、どこか張りつめているように感じた。
麗華はコートを脱ぎながら、平静を装った。
「どうしたの? 急に」
和也はワインを注ぎ、麗華にグラスを差し出した。麗華は受け取ったが、口にはつけなかった。
「最近、君の様子がおかしい。帰りが遅い日が多いし……香水も変わった。化粧も濃くなった」
麗華の心臓が跳ねた。
「仕事が忙しいだけよ。大きなプロジェクトを抱えてるの、知ってるでしょ?」
和也はグラスを回しながら、静かに続けた。
「先週、水曜日の夜。君が『クライアントとの会食』と言った日、俺は取引先と渋谷で飲んでいた。偶然、君に似た女性が男とホテルに入っていくのを見た」
沈黙が落ちた。
麗華はグラスを強く握りしめた。指の関節が白くなる。
「それで? 私が不倫してるって言うの?」
「違うと言ってくれれば、信じるよ」
和也の目は冷えていた。長年一緒に暮らしてきた夫の、こんな冷たい表情は初めて見た。
麗華は一瞬、すべてを白状しようかと思った。
でも、零の荒々しい抱擁、佐伯の静かな微笑み、地下への誘い——それらが頭をよぎり、口を閉ざした。
「……信じて。仕事よ」
和也は小さくため息をついた。
「わかった。信じる。でも、もし何かあったら……俺は容赦しない。君も知ってるだろう? 俺の仕事柄、調査は得意なんだ」
それは脅しだった。
麗華は初めて、夫がただの「無関心な夫」ではないことを思い知らされた。彼は冷たく、計算高く、そして執念深い男だった。
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その夜、麗華はベッドで眠れなかった。
隣で寝息を立てる夫の横顔を見ながら、彼女はスマホを手に取った。零からのメッセージが届いていた。
《今夜も会いたい。店で待ってる》
麗華は迷った末に、短く返信した。
《行けない。夫が疑い始めた》
数分後、零から返信が来た。
《それなら、地下に来ないか? そこでなら、誰にも見つからない》
麗華はスマホの画面を見つめたまま、長い時間動けなかった。
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翌日、昼休みに麗華は再び『Café Liminal』を訪れた。
佐伯は彼女の顔を見るなり、静かに言った。
「地下に行きますか?」
麗華は唇をきつく結んだ。
「……まだ、決められない。でも、話だけは聞きたい」
佐伯は微笑んだ。
「では、今夜、零さんと一緒に地下へご案内しましょう。
ただし、一度地下の扉を開けたら……もう、簡単には戻れませんよ」
麗華の胸に、恐怖と興奮が同時に渦巻いた。
彼女は自分が、ゆっくりと、しかし確実に「影の檻」の奥深くへ落ちていくのを感じていた。




