第二話 深淵の誘い
三度目の訪問からわずか五日後、麗華は再び『Café Liminal』を訪れていた。
今夜の彼女は黒のシースルーブラウスに、深いスリットの入ったスカートという、明らかに「誘う」ための服装だった。夫には「海外クライアントとの会食」と嘘をつき、家を出た。夫は疑う素振りも見せず「気をつけて」とだけ言った。その無関心が、麗華の胸に小さな棘を刺した。
店に入ると、零はすでに三号室で待っていた。
扉を開けるなり、零は麗華を引き寄せ、壁に押し付けた。キスは前回より激しく、貪るようだった。零の手がブラウスを乱暴に捲り上げ、胸を強く揉みしだく。
「随分と積極的になったな」
「あなたに……教えられたのよ」
麗華は息を荒げながら零のネクタイを緩め、シャツのボタンを外した。指先が零の胸の傷跡をなぞる。前の夜に自分が付けた爪痕が、まだ赤く残っていた。
二人はベッドに倒れ込んだ。零は麗華の脚を肩に担ぎ、深く、容赦なく貫いた。麗華はシーツを握りしめ、獣のような声を上げた。痛みと快楽が混じり合い、頭の中が真っ白になる。
「もっと……壊して!」
零は麗華の首に手をかけ、軽く圧迫しながら腰を打ちつけた。麗華は涙を流しながら達した。何度も、何度も。
---
荒々しい行為の後、零は麗華の裸の背中を指でなぞりながら言った。
「夫は気づいていないのか?」
「……気づいていないと思う。気づいていても、きっと何も言わないわ。あの人は、私を『便利な妻』としてしか見ていないから」
零が低く笑った。
「哀れな男だ。お前のような女を、ただの家具扱いするなんて」
麗華は零の胸に顔を埋めた。こんな下品な褒め言葉が、なぜこんなに心地いいのか自分でも不思議だった。
零がふと真剣な声になった。
「佐伯から聞いたか? 地下の話」
麗華は身体を起こした。
「ええ……本当の意味で『契約』する場所だって」
「あそこに行くと、もう戻れない。表の生活を完全に捨てることになる。新しい名前、新しい過去、新しい人生……すべてを」
零は麗華の目を見つめた。
「俺はもう、地上に未練はない。お前はどうだ?」
麗華は沈黙した。
キャリア、地位、社会的信用、夫、慣れ親しんだ生活——すべてを捨てる恐怖。
しかし同時に、それらすべてに縛られている現在の自分への強い嫌悪感もあった。
「まだ……怖い。でも、考えているわ」
零は麗華の唇に軽くキスをした。
「焦るな。だが、時間はあまりない。この店は、欲が深い者から順に地下へ誘う。君はもう、かなり深くまで来ている」
---
その夜、店を出た麗華はタクシーに乗りながら、ふと後ろを振り返った。
『Café Liminal』の看板のない扉が、雨の中にぼんやりと浮かんでいた。
スマホに夫からのメッセージが入っていた。
《今日は何時に帰る? 少し話したいことがある》
麗華はメッセージを既読にせず、電源を切った。
心の奥で、何かが静かに、しかし確実に壊れ始めていた。




