七十話:君のため
幸い、棚が私たちの方へ倒れてくることはなかった。
ドミノみたいに倒れて、急にこの場所が広くなった気がして、
まるで、私たちに——何かに、道を開けたかのように。
当然ジャム瓶は全部落ちて、不思議と、一つも割れることはなくて。
ただ、鋭くなれない音を立てて、転がるだけ。
砂埃が舞う。
目の水分を吸い取って、喉を引っ掻いて。
月光に反発するように、キラキラキラって、
「————っっ、テオくん!!!!」
でも私は見たの。
砂埃が目を覆う前に、見ちゃったの。
赤色。
黒い影。
天井を突き破って落ちてきた『何か』が、テオくんを——
「————ち——がう!! ちがうっ、ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう!!!!!!」
視界を晴れさせる必要はなかった。
私が杖を取り出す前に、どこか抉れた叫び声が聞こえて。
砂埃が全部吹き飛ばされて、月光が痛いくらい眩しくなって、
倒れた棚とジャム瓶たちが、地面に花模様を作る。
空からしか見えない花の真ん中にいるのは、二人。
「テオは——ぼく————の——こ——と、なにもわかって——ない!!!!」
月のスポットライトを浴びるのは、悪魔の翼みたいに揺らめく黒髪。
ヒナタくん。
の、
影を浴びるのは、テオくんの全身。
天使の翼も小さな背中も、固い床に押し付けられていて。
彼の前髪は、血と汗で湿っていた。
「ぼくはそんなことのぞんでない!! ぼくはネルソービューの——せいとに——なんか——なりたく——ないっ!!!!」
ヒナタくんの顔がどこにあるのか、よくわからない。
肌のほとんどが、真っ黒な穴に覆われてて。蠢いて。
蟻の大群に襲われてるみたいで。
「じんがいに——なりたくない!! じんがいは——あくだ!! じんがいはアクだ!! じんガイはあクだ!! じんガイはアクだジンガイはアクダじんガイはアクだジンガイハあくダじんガイはアくだジんガイはアクだじんガイハあくダ」
辛うじて、ヒトの形を保ってる。
彼の指先は、テオくんの肩に突き刺さってるように見えた。
「っ......ひ......な、た............!」
汗がテオくんの頬を伝う。涙みたいに。
耳元の方へ落ちていく。
「わ......わかってる......わかってるよ......!! ヒナタとヒナタのおかあさん、わ、悪い人外にころされたんでしょ......? 人外を憎んでるのはわかってる、よ、で......もっ」
彼は呻き声を堪えながら、そっと、片方の手を上げる。
ヒナタくんに、
穴だらけの頬に、
心の傷に、触れようとする。
「じ、人外が全員悪いってわけじゃ、ないん......だよ? ネルソービュー、には、ヒナタたちをころした人外は——......グール、は......いない、よ............?」
......『グール』......?
「み、んなが......悪いわけ、じゃ、ないんだよ......? だから、さ......っ、いっしょ、に、一緒にネルソービューに通おう、よ......! 一緒に、じ、人外に......なろう、よ......!!」
彼は瞼に涙を溜めながら、弱々しい笑顔を浮かべる。
「前世のこと、辛いこと、ぜんぶ......忘れて............人外、として......」
「幸せ、に————」
テオくんは目を見開いた。
ヒナタくんの背中から、真っ黒な触手が生えてくる。
それは、テオくんの何かを突き刺そうと——
「——~~~~っテオくん!!!!!!」
私。ちゃんと、体......動かせた。
ジャム瓶につまずかないように駆け出して、
パジャマのポケットに杖はないことを思い出して、
突き刺すような勢いで、ヒナタくんの背中に両手をぶつけて、
「————っ! さ、三号、やめ——」
「てやぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁあ!!!!」
ヒナタくんに触れたままの手のひらに、力を込めた。
また、砂埃が舞う。
ヒナタくんは、空気砲に撃たれたかのように吹っ飛ぶ。
一番近くの壁にぶつかって、ズルッと、そのまま落ちる。
動かなくなる。
......し......死んではない、よね......?
っていうか、もうすでに死んでるんだから......
まだ、きっと無事、で............、
「——うっ......っ............」
膝がガクガクってなって、思わずテオくんのそばに座り込みそうになる。
自分の手のひらを見下ろすと、やっぱり皮がたくさんめくれてて。
火傷と同じくらい、ヒリヒリして......。
うぅぅ......威力は出るんだけど......相変わらず、魔力の制御が下手すぎて——
「あぁぁぁああ。ぁあアァァァアァァァアァアあぁ。ぁあハハハハハハハハハハ。」
ヒナタくんはエビ反りになって、UFOに浮かされたかのように起き上がる。
そ、そうだよ、ね。終わったわけない、よね。
守らなきゃ、テオくんのこと、
まだ、
「やめて!! ヒナタ!!!! 三——うぃ、ウィロー!! もう——」
「あーあ。」
私よりも先に、ヒナタくんがテオくんを遮る。
顔だけを、こっちに向かってカクカクって、曲げて。
彼の目も口も、白く染まった。
蠢く穴に覆われながらも、その笑顔を見せつけるかのように。
綺麗に切り取られた半円が、三つ。光る。
そして——
「テオも——ウィローおねえちゃん、も——」
「——じんがいに、なっちゃったんだ」
自分の目の前にあるのが、ヒナタくんの顔だって気づいた頃には。
もう、全部遅かった。
「————————っあ」
顎。
頬。
肩、
腕、
頭、
首
足
胸
翼
......月光が眩しかった。
宙を舞う真っ白な羽は、多分、私のもので。
うご......け......な、い。
頭も、背中も翼も、生ぬるい。
鉄格子の匂いがする。
天井の穴から、星空が見える。
地を転がる宇宙ジャムよりも、ずっと......儚い。
「..................」
速すぎて、何をされたのかよく覚えてない。
ただ、倒れたことしか。
立てないことしか。
すごく......痛い、ことしか......っ......、
「っ、ゔ......ぅ............!」
「ウィローおねえ——、ちゃん......」
横に立つヒナタくんは、バッと私の顔を覗き込んできた。
顔の左半分の穴だけが、いくつか塞がっていて。
顔の右半分は、変わらず真っ黒で。
私を嘲笑う目と、哀れむ目が、一つずつ。
「かなしい。ぼく、かなしい——よ。すごく。ウィローおねえちゃんのこと、けっこうすき、だったのに。」
おなか......あつ、い。
血が出てるわけじゃない。
のに。
なんでこんなに動けないんだろう。
「でも、じんがいに——なっちゃったんだ。うらぎった。そっちがうらぎったんだよ。」
冷たい。
影が。
落ちて......。
「だから......ウィローおねえちゃんのこと——」
テオくん。無事かな。
あ~~~......申し訳ないなぁ......
私......また、みんなに......、
「——ぐちゃぐちゃに、————シナイ——ト」
迷惑、かけちゃうなぁ......。
「————やめろっ!! この悪霊めっ!!!!」
目の前が真っ暗になるかと思いきや、真っ白になった。
ううん、白じゃない。......黄色だ。薄い黄色。
反射的に瞑っちゃった目を開けてみると、ヒナタくんは動けなくなってて。
体に、黄色に光る輪が————天使の輪っか、が。巻き付いていて。
「これ以上、僕の大事な生徒を傷つけないでくれるかな!?」
聞いたことのある声が、一瞬で近づいてきて。
彼はヒナタくんに、
何かを、突き刺して——
「——————ギャッ」
ヒナタくんは動物みたいな悲鳴をあげる。
体にヒビが入って、
白く光って、
割れた。
バラバラに。
ガラス細工、みたいに。
割れて、崩れて、跡形もなく。
ヒナタくんの破片は、雪のように舞い降りて。
私のお腹の上に、
すぐ横に、
灰色の地面に、
積もる。
「......ふぅ............よかった、間に合った......」
彼は、落ちた天使の輪を回収しながら、小さく息をついた。
そして、私のそばにそっと腰かけて、
転がってきた宇宙ジャムの瓶を避けて、
月光に照らされた、真っ白な髪は。
ヒナタくんの残骸と同じくらい、綺麗......で......
「もう大丈夫だからね、ウィローくん。悪霊はもう退治したよ」
「......トモ、ル......せんせ......」
声がうまく出せない。
怪我のせい、だけじゃなくて、
「よく頑張ったね。あとは全部僕に任せて! 怪我も治してあげるからね......」
先生の笑顔は、優しい。
一滴も悪意を感じられない。
「テオくんも、怪我をしてしまっているみたいだね。......おいで。二人とも、僕が代理医務室まで運んであげるよ」
テオくんの姿は、ここからじゃ見えない。
天井とトモル先生しか見えない。
「どうして二人が、学園倉庫の中にいるのかわからないけど......その話は、後で聞こうか......」
「せ、んせ、ひ......ヒナタくん、は......どうなっ............」
「あぁ、あの悪霊のことかい? 心配しなくても大丈夫だよ」
先生は、私の額を優しく撫でた。
いつの間にか、ヘアバンドが外れてたみたい。
前髪が降りてて......。
「あの悪霊が、君たちを襲うことはもうない。ちゃんと退治したからね」
......あ......、
「きちんと消し去ったからね」
「もう二度と、君たちを苦しめたりしないから」
『みず——いろの、おねえちゃん。』
『このまえは——ぼくと、あそんで——くれ——て、ありがとう......ね。』
「もう、大丈夫だからね」
「僕は......ネルソービューは、いつだって、君たち生徒を守るよ」
「だから、安心し——」
薄桃色の髪が、視界に現れる。
テオくんは思いっきり拳を振り上げて、トモル先生を殴った。
片方の頬に、淡い赤が残る。
先生は目を見開きながら、すぐにテオくんの方を向く。
でも......テオくんの表情に浮かぶのは、怒り、というよりは......。
「っ、......ぁ......ぁ......あぁ............あぁぁあ............」
テオくんは、ヒナタくん——だったものに、触れた。
三角形の粉雪が、指先に貼り付いてる。
それだけ。
話すことも。動くことも。もうない。
大粒の涙が、ヒナタくんの残骸に落ちていく。
「な......んで......っ、なんでっ、なんでなんでっっ、なんで」
テオくんは、未だにポカンとしてる先生の胸ぐらを掴む。
「ひ、なたっ、ひなた、ひなたぁっ」
指先を震わせて、どんどん手の力が抜けてるみたいで、
少しずつ、肩も、顔も下げて、
「か、えして、かえしてっ、かえしてよっっ、ひなた、ひなたぁ、なにもしてないよっ、わるいことしてないよ、た、だ、ただ、てお、が、ておの、せい、で」
『ヒナタと一緒に、ネルソービューに通いたいんだ』
『ぜったい楽しいもん! 友達といっしょに学校行くの!』
「て......テオくん? 何を言って............」
先生から、少しずつ笑顔が消えていく。
金色の瞳から、光が溶けていく。
「あの子は悪霊、で......君たちを襲っ、て......」
「うぁぁぁあっ、ぁぁぁあぁぁぁあ、ぁぁぁああぁああぁぁぁああぁっぁぁあぁあ」
「ち......ち、違う......僕はただっ、あ、悪霊、から......悪霊、を......っ......!」
泣き崩れるテオくんを前に、先生の顔色はどんどん悪くなっていく。
呼吸が浅くなって。下瞼に、隈みたいなのが現れて。
額に汗を浮かばせて。
天使の輪っかを、自分の膝の上に落として。
同時に、ヒナタくんの残骸が付いたペン、みたいなもの......?も、ヒビ割れた床に落として、
「違うっっ!!」
やがて先生は、何度も首を横に振りながら、震える手で自分を抱きしめた。
「僕はただ君のっ、っっぁ、き、君たちを、守るため、に......!!」
私は、ただ二人を見上げることしかできなかった。
二人の影が、私の体に落ちる。
月は変わらず輝いている。
ヒナタくんはもういない。
『「悪霊」は、テオたちと一緒! 死んじゃってて、可哀想で、幸せになる権利がある!』
......悪いのは......どっち......?
「——————っ、~~~~............は............は............はは......」
テオくんは、吐息混じりの笑いをこぼした。
音程が一切変わらない、壊れたロボットのような。
ヒナタくん、みたいな————っ
「ハハハハハ。あ......あはは............ヒナタの......言う通り......だったのかな............」
彼はほんの少ししか音を立てずに、肩で呼吸する。
瞬きせずとも流れる涙を、ただ眺める。
光をなくした、ドブ色の目で。
「......ネルソービューのやつらは......みんな......悪いやつで............」
テオくんは、トモル先生を睨みつける。
そんな、彼の目の奥には。
眼球、には......っ
「人外は......みんな......悪............?」
小さな小さな、
ヒナタくんと同じような、
黒い穴が、開いていた。
***
......あの後。
私とテオくんは、医務室に連れていかれた。
トモル先生はショックで寝込んじゃったから、校長先生————アポネ先生が、私たちの怪我を治してくれた。
ヒナタくんのことは、公になって。
色んな噂が、学校中に広まって。
生徒たちが、安心して暮らせるようにって......学校側は、警備を強めるって言って。
ブレイズくんは、事件のことを聞いても、何も言わなかった。
それから、数日後。
テオくんが、行方不明になった。
次話:ウィローさん、誘拐される
です。二年生が本当に始まったと言えますね




