8話(前編)
応接室には、まだ静寂が残っていた。
第一王子レオナルドの恋は、婚約管理局の記録上、『片想い』として整理された。
その事実を、誰もすぐには受け止めきれなかった。
「……片想い。」
ぽつりと呟いたのは、レオナルド本人だった。
先ほどまで真っ赤だった顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「私は……片想いだったのか。」
「現時点では、そのように記録されます。」
クラリスは穏やかに答えた。
「記録するな!」
「必要事項ですので。」
反射のように返したものの、レオナルドの声には朝のような勢いはなかった。
リリアナは両手を膝の上に置き、背筋を伸ばす。
「殿下。」
小さな声だった。
だが、逃げるような響きはない。
「私は、殿下を嫌っているわけではありません。」
レオナルドが顔を上げる。
「王子殿下として、敬意はございます。」
リリアナは一つずつ言葉を選ぶように続けた。
「ですが、それは恋愛感情ではありません。」
「……。」
「そして、私は誰かの婚約を壊してまで、自分が幸せになりたいとは思いません。」
その言葉に、応接室の空気が少しだけ変わった。
レオナルドは、初めて返す言葉を探さなかった。
ただ、リリアナの言葉を聞いていた。
「昨日のことは、本当に驚きました。」
「すまない。」
小さな声だった。
だが、その言葉にリリアナは目を見開いた。
レオナルド自身も、少し驚いたように口を閉じる。
謝るつもりで言ったのか。
それとも、自然と漏れたのか。
本人にも分かっていないようだった。
けれど、その一言は確かに応接室へ落ちた。
リリアナは少しだけ表情を和らげる。
「……はい。」
リリアナは小さく頷いた。
その表情は、今朝管理局を訪れた時よりも、どこか穏やかだった。
そして、今度はエレノアへ視線を向ける。
「エレノア様。」
「はい。」
「殿下へ、お伝えしたいことはございますか。」
エレノアはすぐには答えなかった。
ティーカップへ視線を落とす。
紅茶は、もうすっかり冷めている。
けれど、彼女はそれに口をつけることなく、ゆっくりと顔を上げた。
「この婚約を解消したいとは思っておりません。」
静かな声だった。
けれど、その言葉に迷いはない。
「殿下を支えたいと思っております。」
一拍置いて、静かに続ける。
「ですが、変わろうとしてくださらないのであれば。」
「その時は、私からこの婚約を終わらせます。」
応接室は静まり返る。
レオナルドはしばらく俯いたままだった。
やがて、小さく息を吐く。
「……私は。」
握り締めていた拳をゆっくりと開いた。
「お前の気持ちを、一度も聞こうとしなかった。」
その声は震えていた。
「隣にいることが当たり前で、お前もそう思っているのだと、勝手に決めつけていた。」
一度だけ目を閉じる。
「すまなかった。」
短い謝罪だった。
けれど、それはレオナルドが初めて、自分の意思で口にした謝罪だった。
エレノアは静かに頷く。
「私は、言葉にしていただかなければ分からないこともございます。」
「……お前でもか。」
「私でもです。」
そのやり取りを聞いていたクラリスは、手帳へ何かを書きかけ、ふと手を止めた。
「……今の内容は、恋愛相談に該当する可能性がございます。」
「まだ相談していない!」
レオナルドが思わず顔を上げる。
「予防です。」
「予防するな!」
張り詰めていた応接室に、小さな笑いが広がる。
リリアナも思わず口元を押さえ、セドリックも小さく咳払いをして視線を逸らした。
レオナルドは苦笑すると、もう一度エレノアへ向き直る。
そして、ゆっくりと息を吸った。
「……変わる。」
誰に言われたからでもない。
初めて、自分の意思で口にした言葉だった。
飾り気も、言い訳もない。
けれど、その一言には確かな決意が込められていた。
エレノアは穏やかに微笑む。
「はい。」
その一言だけで十分だった。
クラリスは静かに手帳を閉じる。
「確認いたしました。」
応接室の全員がクラリスへ視線を向ける。
「本件につきましては、婚約解消申請としては受理できません。」
「……そうだったな。」
レオナルドは力なく頷く。
「よって、本件は婚約解消案件ではなく、婚約関係調整案件としてお預かりいたします。」
「婚約関係調整案件……。」
レオナルドはその名称を小さく繰り返した。
「婚約関係の継続を前提とし、当事者間の意思確認ならびに関係改善を目的とした案件です。」
クラリスは穏やかに説明する。
「今後は王家および公爵家を交えた協議の上、必要な対応が進められます。」
「必要な対応とは。」
「詳細は王家にて決定されます。」
クラリスはにこりと微笑んだ。
「恐らくですが。」
「再教育かと。」
レオナルドは静かに天井を仰いだ。
セドリックはそっと目を閉じる。
――やはり。
そんな心の声が聞こえてきそうだった。




