7話
王子は再び王立婚約管理局を訪れていた。
朝の勢いはすっかり消え失せ、すでに疲労困憊である。
応接室の椅子へ腰を下ろしたレオナルドは、深く息を吐いた。
手元には、折り目のついた必要書類一覧。
その端は何度も握りしめられたせいか、少しよれている。
今朝ここへ来た時の彼は、婚約破棄など宣言すれば終わるものだと信じていた。
だが今は違う。
家門承認印は得られず。
保証人にも断られ。
慰謝料算定資料という言葉だけで頭が痛い。
そして管理局からは、親切すぎるほど丁寧な案内まで届いた。
婚約破棄とは、想像以上に重い。
そのことだけは、嫌というほど理解した。
「つまりだ。」
「はい。」
「書類が揃えば婚約破棄できるのだな。」
「はい。」
クラリスは穏やかに頷く。
「所定の書類がすべて揃い、内容に不備がなく、双方の意思確認が完了した場合は、婚約解消申請として審査に進みます。」
「……審査。」
「はい。」
レオナルドは小さく天井を仰いだ。
書類を揃えれば終わると思っていた。
そうではないらしい。
「受理されれば終わりではないのか。」
「受理は、審査を開始するための手続きです。」
「……そうか。」
レオナルドは深く息を吐いた。
「では、婚約解消が認められれば。」
「はい。」
「私はリリアナと婚約できる。」
「いいえ。」
即答だった。
あまりにも迷いのない返答に、レオナルドは顔を上げる。
「なぜだ!」
「婚約には双方の同意が必要です。」
「当然ある!」
そう言い切った瞬間、応接室の空気がわずかに止まった。
クラリスは表情を変えない。
「確認いたします。」
ちょうどその時、控えめなノックが響いた。
コンコン。
「失礼いたします。」
受付担当の職員が扉を開け、一礼する。
「クラリス様。」
「はい。」
「エレノア・フォン・ローゼンベルク様と、リリアナ・フォン・ウェストン様のご案内が整いました。」
レオナルドが動きを止める。
「……エレノアが来ているのか。」
「はい。」
「なぜだ。」
「本件の当事者でいらっしゃいますので。」
クラリスは当然のように答えた。
「婚約は双方の契約です。双方の意思を確認する必要がございます。」
レオナルドは言い返せなかった。
昨日までなら、「私が決めた」と言い返していただろう。
だが今は、その言葉が出てこない。
王宮で何度も突きつけられた現実が、ようやく胸に残り始めていた。
「……通せ。」
「では、お通ししてください。」
「かしこまりました。」
職員が一礼して退室する。
しばらくして、再び扉が開かれた。
「失礼いたします。」
先に入ってきたのはエレノアだった。
背筋を伸ばし、静かに一礼する。
「殿下。」
「……エレノア。」
レオナルドは思わず立ち上がりかけたが、何を言えばいいのか分からず、途中で動きを止めた。
続いて入室したリリアナは、少し緊張した面持ちだった。
それでも、今朝この部屋へ案内された時のような震えはない。
小さく息を整え、まっすぐ前を向いて歩いてくる。
エレノアがごく小さく頷くと、リリアナもそれに応えるように頭を下げた。
「失礼いたします。」
二人が席へ着く。
応接室には、クラリス、レオナルド、エレノア、リリアナ。
そして少し後ろに、セドリックと二人の側近。
関係者が揃った。
クラリスは静かに手元の書類を整える。
「それでは、確認を始めます。」
その声に、誰もが自然と姿勢を正した。
「まず、リリアナ様。」
「はい。」
「殿下との婚約を希望されますか。」
リリアナは勢いよく首を横に振った。
「希望しておりません!」
「だそうです。」
「なっ……!」
レオナルドが固まる。
「リリアナ!」
呼ばれたリリアナは、びくりと肩を震わせた。
それでも、逃げるように視線を逸らすことはなかった。
膝の上で両手を握り、懸命に顔を上げる。
「殿下。」
震えはある。
けれど、その声ははっきりしていた。
「私、告白もされておりません。」
応接室の空気が凍り付いた。
「昨日初めて、殿下が私を好きだと知りました。」
「……。」
「殿下が私をそのように思っていらっしゃることも知りませんでした。」
レオナルドは口を開いた。
何か言おうとした。
だが、何も出てこなかった。
リリアナは一度だけ息を整える。
「ですから……突然、婚約者だと言われても困ります。」
その言葉は、責めるためのものではなかった。
ただ、事実を伝えているだけだった。
「私は殿下をお慕いしておりません。」
リリアナは、ゆっくりと続ける。
「王子殿下として敬意はございます。ですが、それは恋愛感情ではありません。」
立場をわきまえた、丁寧な言葉だった。
だからこそ、余計に逃げ場がなかった。
「私が婚約を望んでいるなんて、そのようなことはございません。」
応接室に沈黙が落ちる。
リリアナは言い切ったあと、少しだけ顔を伏せた。
その耳は赤くなっていた。
けれど、発言を取り消そうとはしない。
レオナルドは初めて、彼女をきちんと見た。
昨日、会場で名を呼ばれた時。
確かに彼女は驚いていた。
喜んでいたのではない。
誇らしげだったのでもない。
ただ、困惑していた。
なぜ、それに気付かなかったのか。
「殿下。」
静かに声をかけたのは、セドリックだった。
「……何だ。」
「リリアナ様のお気持ちを、お聞きになったことはございましたか。」
レオナルドは答えられない。
聞いたことはなかった。
そう思っているはずだと、信じていただけだった。
「……ない。」
「エレノア様のお気持ちは。」
レオナルドは、今度こそ完全に沈黙した。
視線が自然とエレノアへ向く。
エレノアは静かにそこに座っていた。
怒るでもなく、泣くでもなく。
ただ、真っ直ぐにレオナルドを見つめている。
その落ち着いた眼差しを、レオナルドは昔から知っている。
幼い頃から、何度も見てきたはずだった。
それなのに。
彼女が何を考えているのか。
自分は一度でも、きちんと聞いたことがあっただろうか。
「……ない。」
小さな声だった。
セドリックはそれ以上何も言わず、一歩下がった。
クラリスは静かに羽ペンを取る。
「整理いたします。」
静かに手帳へ視線を落とした。
レオナルドは嫌な予感を覚える。
しかし、婚約管理局の職員は容赦しない。
「まず、エレノア様との婚約は継続中。」
「婚約解消申請は、書類不備により未受理。」
「リリアナ様との婚約は未成立。」
「リリアナ様からの恋愛感情は確認できませんでした。」
クラリスは淡々と記録を書き進める。
「また、殿下からリリアナ様への正式な求愛の意思表示も確認されておりません。」
「文通、贈り物、お二人だけでの面会もございません。」
一つひとつ確認されるたび、レオナルドの逃げ道がなくなっていく。
そしてクラリスは、静かに顔を上げた。
「つまり。」
一拍。
応接室の誰もが、次の言葉を待っていた。
クラリスはいつもと変わらぬ穏やかな口調で、完璧な確認口調のまま告げる。
「片想いですか?」
静寂が落ちた。
リリアナは両手で顔を覆った。
側近たちは揃って視線を逸らす。
セドリックは天井を見上げた。
エレノアは紅茶に手を伸ばしかけて、危うく止まった。
口元を押さえ、静かに俯いている。
肩がかすかに震えているのは、咳ではない。
ただ一人。
レオナルドだけが真っ赤になっていた。
「か、片想いではない!」
「現時点では、そのように判断されます。」
クラリスは迷いなく答えた。
「違う!」
「では、両想いですか?」
クラリスの問いに、レオナルドは言葉を詰まらせた。
反論しようにも、その証拠がどこにもない。
代わりに向けられた視線を受け、リリアナが小さく首を横に振る。
「違います。」
「承知いたしました。」
クラリスは静かに最後の一行を書き加え、手帳を閉じた。
こうして第一王子レオナルドの恋は、婚約管理局の記録上、
『片想い』
と記録されたのである。




