6話
王立婚約管理局を後にしたレオナルドは、その足で王宮へ戻っていた。
手には、先ほどクラリスから渡された必要書類一覧。
婚約解消申請書。
双方の署名。
保証人二名。
家門承認印。
資産分割確認書。
共同事業精算書。
解消慰謝料算定資料。
ざっと眺めただけでも、気が遠くなるほどの項目が並んでいる。
だが、レオナルドはまだ諦めていなかった。
必要書類がいるというなら、集めればいい。
自分は第一王子である。
本気で動けば、書類などすぐに揃うはずだ。
少なくとも、この時点ではまだ、そう信じていた。
「父上!」
レオナルドは勢いよく国王の執務室の扉を開いた。
重厚な机に向かっていた国王は、書類から顔を上げる。
そして、静かに言った。
「ノック。」
「……失礼しました。」
レオナルドは一度扉を閉めた。
コンコン。
「失礼いたします!」
「入れ。」
改めて入室すると、レオナルドは胸を張って歩み寄る。
「父上、婚約解消の承認印をお願いいたします!」
そう言って差し出したのは、婚約解消申請書だった。
国王は書類を受け取り、しばらく眺めた。
そして、静かに机の上へ置く。
「押さん。」
「なぜです!」
「理由を聞こう。」
レオナルドは待っていましたと言わんばかりに顔を上げた。
「私は真実の愛を見つけました!」
国王は黙っている。
続きを待っている顔だった。
「……以上です。」
「押さん。」
「なぜです!」
「今の説明で、ローゼンベルク公爵家が納得すると本気で思っているのか。」
レオナルドは言葉に詰まった。
「しかし、私は王子です!」
「だから何だ。」
「私が決めたことです!」
「婚約は、お前一人の持ち物ではない。」
国王の声は低く、けれど怒鳴ってはいなかった。
その分、余計に逃げ場がない。
「婚約は家と家との契約だ。王家と公爵家、双方の信頼の上に成り立っている。」
「……。」
「それを壊すというなら、相手を納得させるだけの理由を示せ。」
レオナルドは手元の申請書を見る。
理由欄は空白だった。
いや、正確には、管理局で一度「冷たい」と記録されかけた。
だが、それは契約違反には該当しないと言われた。
「レオナルド。」
「……はい。」
「説明できぬものを、他人は納得せん。」
その言葉は、妙に重かった。
レオナルドは申請書を握りしめる。
「……出直します。」
「そうしろ。」
執務室を出たあと、レオナルドは廊下で立ち尽くした。
最初の承認印。
——失敗。
だが、まだだ。
承認印が駄目なら、先に保証人を揃えればいい。
そう考え、レオナルドは勢いよく振り返った。
「セドリック!」
「はい、殿下。」
「保証人になれ!」
その場に沈黙が落ちた。
セドリックは一瞬だけ目を伏せる。
そして、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。お受けできません。」
「お前まで!?」
レオナルドは心底信じられないという顔をした。
「なぜだ! お前は私の側近だろう!」
「はい。だからこそです。」
「だからこそ?」
「保証人は、婚約解消が妥当であると判断した者が務めるものです。」
「誰がそんなことを決めた!」
セドリックは懐から小冊子を取り出した。
表紙には、丁寧な文字でこう記されている。
――婚約解消申請の手引き。
「管理局でいただきました。」
「読んだのか?」
「はい。」
「全部か?」
「全部です。」
レオナルドは小冊子を凝視した。
「……真面目だな。」
「ありがとうございます。」
「褒めておらん!」
セドリックは困ったように微笑むだけだった。
「殿下。」
「何だ。」
「私は殿下をお支えする立場です。ですが、今回の件については、まだ保証人として署名できるだけの理由を見出せておりません。」
「……。」
「殿下のためにも、お受けできません。」
その言葉に、レオナルドは反論しようとした。
だが、言葉が出てこない。
今朝までなら、怒鳴っていたかもしれない。
けれど先ほど国王に言われた言葉が、まだ耳に残っていた。
説明できぬものを、他人は納得せん。
「では……。」
レオナルドは残る二人の側近を見回した。
「……まさか、お前たちも。」
二人は顔を見合わせると、小さく頷いた。
「「拝読いたしました。」」
声がきれいに重なった。
「全員か……。」
レオナルドだけが読んでいなかった。
「なぜ皆そんなに素直なんだ……。」
側近たちは気まずそうに視線を逸らした。
保証人二名。
——失敗。
次だ。
共同事業精算書。
それなら担当部署へ行けばいい。
レオナルドは気を取り直し、財務官の執務室へ向かった。
「共同事業精算書とは何だ?」
財務官は眼鏡を押し上げた。
「共同事業を精算するための書類でございます。」
「それは見れば分かる!」
「左様でございますか。」
財務官は少しも動じない。
王子の勢いだけでは通らない。
レオナルドは、この日初めてそれを知った。
「王家とローゼンベルク公爵家は、街道整備、学校建設、孤児院支援など七件の共同事業を行っております。」
「七件も?」
「はい。」
「……知らなかった。」
財務官は少しだけ驚いた顔をした。
「ご存じなかったのですか。」
その一言に、レオナルドは胸を突かれたような気がした。
知らなかった。
エレノアとの婚約が、王家と公爵家の間でどれほど多くの約束を生んでいたのか。
その約束が、どれほど多くの人に関わっていたのか。
考えたこともなかった。
「精算には、各事業の出資割合、今後の管理責任、利益配分、未完了事業の扱いを確認する必要がございます。」
「……それは、すぐ終わるのか?」
「終わりません。」
即答だった。
「どれくらいかかる。」
「内容確認だけでも数日は必要かと。」
「数日……。」
「正式な協議となれば、さらに長くなります。」
レオナルドは書類を見下ろした。
紙一枚の向こうに、知らない現実が広がっていた。
共同事業精算書。
——失敗。
いや、失敗というより、入口にすら立てていない。
次は法務官だった。
「慰謝料算定資料?」
「婚約を解消されるのでしょう?」
「そうだ。」
「でしたら必要です。」
「なぜ私が支払う前提なのだ。」
「婚約解消を申し出た側だからです。」
またそれだ。
管理局でも聞いた。
そして、ここでも同じことを言われる。
「相手側に重大な契約違反が認められない場合、申し出た側が補償責任を負います。」
「重大な契約違反……。」
「ございますか?」
法務官は淡々と尋ねた。
レオナルドは口を開きかける。
エレノアは冷たい。
そう言おうとして、止まった。
管理局で言われた言葉が蘇る。
精神的なご感想になりますので。
違いは何だ、と尋ねた自分に、クラリスは迷いなく答えた。
かなり違います。
「……ない。」
「では算定資料が必要です。」
また即答だった。
「ちなみに。」
法務官は書類へ視線を落とす。
「婚約期間が十年以上であり、王家と公爵家の関係性を鑑みますと、補償額は相応のものになるかと。」
「相応とは?」
「かなりです。」
「かなり……。」
レオナルドは、思わず椅子へ座り込んだ。
慰謝料算定資料。
——失敗。
夕方。
レオナルドは自室に戻っていた。
机の上には、管理局から受け取った必要書類一覧と、各部署で渡された資料が積み上がっている。
婚約解消申請書。
双方の署名。
保証人二名。
家門承認印。
資産分割確認書。
共同事業精算書。
解消慰謝料算定資料。
必要項目は、ひとつとして埋まっていない。
「多い……。」
呟きは、誰に届くでもなく部屋に落ちた。
数時間前までは、あんなにも簡単だと思っていた。
婚約破棄。
そう宣言すれば終わるものだと思っていた。
だが実際には、何一つ終わっていなかった。
それどころか、始まってすらいなかった。
「婚約とは……こんなにも重いものだったのか。」
ようやく漏れた言葉に、セドリックが静かに目を伏せる。
責めることはしなかった。
ただ、王子の隣に立っていた。
その時だった。
コンコン。
「失礼いたします。」
侍従が封筒を持って入ってくる。
「王立婚約管理局より、お届け物でございます。」
レオナルドは勢いよく顔を上げた。
「追加か!?」
「いえ、ご案内とのことです。」
「……嫌な予感がする。」
恐る恐る封を開ける。
中には、数枚の紙が入っていた。
一枚目。
――初めて婚約を解消される方へ。
「誰が初心者だ……。」
二枚目。
――婚約解消申請に関するよくあるご質問。
三枚目。
――必要書類チェックリスト。
四枚目。
――申請書記入例。
レオナルドは無言で紙を机へ並べた。
記入例には、どこに何を書けばよいのか、赤い線と矢印で丁寧に示されている。
必要書類チェックリストには、未提出の欄に印を入れられるよう、四角い枠まで用意されていた。
よくあるご質問には、最初の項目としてこう書かれている。
問。
婚約破棄を宣言した場合、即時に婚約は解消されますか。
答。
解消されません。正式な手続きが必要です。
レオナルドは額に手を当てた。
「管理局というのは……。」
深いため息が漏れる。
「恐ろしいところだな。」
隣でセドリックが小さく微笑む。
「親切、とも申します。」
「親切すぎる。」
机の上には、まだ一枚も完成していない書類。
そして、必要以上に丁寧な記入例。
窓の外では、夕日が王都を赤く染めていた。
朝の勢いは、もうどこにも残っていない。
レオナルドはしばらく書類を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……もう一度、管理局へ行く。」
セドリックが顔を上げる。
「よろしいのですか。」
「分からんことだらけだ。」
レオナルドは、悔しそうに必要書類一覧を握りしめる。
「だから、今度は説明を聞く。」
その言葉に、セドリックは少しだけ目を見開いた。
そして、静かに頭を下げる。
「はい、殿下。」
こうして第一王子レオナルドは人生で初めて、自ら「説明を聞く」ことを選んだ。




