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王立婚約管理局 ~婚約破棄には必要書類がございます~  作者: 焔
婚約破棄には必要書類がございます
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5/9

5話

 事実関係は、おおよそ整理できている。


 必要なのは、書類には書かれない当事者の意思だった。


「最後に、一つだけ確認させてください。」


 クラリスは二人へ視線を向ける。


「お二人とも、殿下へ恋愛感情はございますか。」


「ございません!」


 リリアナが間髪入れずに答えた。


 あまりにも迷いのない返事に、クラリスは思わず小さく目を瞬かせる。


「承知いたしました。」


 さらさらと手帳へ書き留める。


 そして、ゆっくりとエレノアへ視線を向けた。


 エレノアはすぐには答えなかった。


 ティーカップへ目を落とし、静かに立ち上る湯気を見つめている。


 ほんの数秒。


 その沈黙から、どれほど多くの想いを抱えているのかが伝わってきた。


「……あります。」


 短い返事だった。


 けれど、その一言は重かった。


 クラリスは静かに頷く。


「確認ですが、婚約を解消したいお気持ちはございませんか。」


「ありません。」


 迷いのない返事だった。


「理由を、お聞かせいただけますか。」


 エレノアは窓の外へ目を向け、小さく微笑んだ。


「物心がついた頃には、殿下はいつも隣にいました。」


 幼い日の記憶が胸をよぎる。


 王宮の庭園。


 転んでしまった少女へ、小さな手が差し伸べられる。


『大丈夫か、エレノア。』


 泣きそうになっていた自分へ向けられた笑顔。


『私が守る。』


 幼い日の約束だった。


「勉強が嫌いで、よく先生に叱られていました。」


 懐かしそうに笑う。


「そのたびに私まで一緒に叱られてしまって。」


 リリアナの口元も思わず緩む。


「礼儀作法の練習も、一緒によく頑張りました。」


 一つひとつは小さな思い出だった。


 けれど、その積み重ねは、気づけば十年以上になっていた。


「昨日は……とても悲しかったです。」


 ぽつりと零れたその一言に、昨日という一日の重さが滲んでいた。


「でも。」


 エレノアはゆっくりと顔を上げる。


「嫌いには、なれませんでした。」


 応接室が静まり返る。


 クラリスは穏やかな口調で問いかけた。


「それは恋愛感情でしょうか。」


 エレノアは少し困ったように笑う。


「……分かりません。」


 小さく首を横に振った。


「気づけば、殿下が隣にいるのが当たり前でした。」


「だから、恋なのか、それとも別の気持ちなのか……私にも分からないんです。」


 少し照れたように目を伏せる。


「でも。」


 その瞳には、もう迷いはなかった。


「支えたいと思っています。」


 短い言葉だった。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 静かな空気の中、おずおずとリリアナが顔を上げる。


「あの……。」


「何でしょう。」


 エレノアは優しく微笑んだ。


 リリアナは一度視線を落とし、膝の上でぎゅっと手を握る。


「失礼でしたら、ごめんなさい。」


「どうして……そこまで殿下を信じられるんですか。」


 その一言に、クラリスも静かにエレノアを見る。


 責めるような響きはなかった。


 純粋な疑問だった。


 エレノアは少しだけ目を丸くすると、ふっと優しく笑った。


「そうですね。」


 窓の外へ視線を向ける。


「今の殿下だけを見れば、そう思われても仕方ありません。」


 少しだけ目を細めた。


「でも、私は幼い頃の殿下を知っています。」


「困っている人を見ると、放っておけない方でした。」


「使用人のお子さんが泣いていれば、一番に駆け寄るような方でしたし。」


「転んだ私に、真っ先に手を差し伸べてくださったのも殿下でした。」


 懐かしそうに笑う。


「勉強は苦手でしたけれど。」


「とても優しい方だったんです。」


 リリアナは静かに耳を傾けていた。


「だから。」

 


 エレノアはゆっくりとリリアナを見る。


「今の殿下が、本当の殿下だとは思えないんです。」


「少し道に迷ってしまっただけ。」


「私は、そう信じたいんです。」


 リリアナは何も言えなかった。


 その言葉が、あまりにも真っ直ぐだったから。


 クラリスは静かに頷く。


「では、仮に殿下が変わられなかった場合は。」


 エレノアは間を置かなかった。


「その時は。」


 まっすぐクラリスを見つめる。


「私が、この婚約を終わらせます。」


 静かな声だった。


 けれど、その決意だけは揺るがない。


 クラリスはしばらくエレノアを見つめていた。


 やがて静かに手帳を閉じる。


「ありがとうございます。」


 その一言に、エレノアは少しだけ目を丸くした。


「お話を伺い、安心いたしました。」


「婚約を続けたい理由が、義務ではなく、ご自身の意思だと分かりましたので。」


 エレノアは安堵したように息をつく。


「……ありがとうございます。」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「本件は婚約解消案件ではなく、婚約関係の調整案件としてお預かりいたします。」


 リリアナが小さく首を傾げる。


「調整案件、ですか?」


「はい。」


 クラリスは二人をまっすぐ見つめた。


「王立婚約管理局は、婚約を解消するためだけの役所ではございません。」


「契約は、人を縛るためのものではありません。」


 一拍置く。


「人を守るためのものです。」


 その言葉は、静かな応接室へゆっくりと溶けていく。


「ですから私たちは、まず契約を守る方法を考えます。」


 エレノアは小さく微笑んだ。


「安心して、お任せできますね。」


 クラリスも微笑み返す。


「ありがとうございます。」


 クラリスは静かに頷いた。


「必ず、最善の形を見つけてみせます。」


 その穏やかな声には、不思議と人を安心させる力があった。

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