5話
事実関係は、おおよそ整理できている。
必要なのは、書類には書かれない当事者の意思だった。
「最後に、一つだけ確認させてください。」
クラリスは二人へ視線を向ける。
「お二人とも、殿下へ恋愛感情はございますか。」
「ございません!」
リリアナが間髪入れずに答えた。
あまりにも迷いのない返事に、クラリスは思わず小さく目を瞬かせる。
「承知いたしました。」
さらさらと手帳へ書き留める。
そして、ゆっくりとエレノアへ視線を向けた。
エレノアはすぐには答えなかった。
ティーカップへ目を落とし、静かに立ち上る湯気を見つめている。
ほんの数秒。
その沈黙から、どれほど多くの想いを抱えているのかが伝わってきた。
「……あります。」
短い返事だった。
けれど、その一言は重かった。
クラリスは静かに頷く。
「確認ですが、婚約を解消したいお気持ちはございませんか。」
「ありません。」
迷いのない返事だった。
「理由を、お聞かせいただけますか。」
エレノアは窓の外へ目を向け、小さく微笑んだ。
「物心がついた頃には、殿下はいつも隣にいました。」
幼い日の記憶が胸をよぎる。
王宮の庭園。
転んでしまった少女へ、小さな手が差し伸べられる。
『大丈夫か、エレノア。』
泣きそうになっていた自分へ向けられた笑顔。
『私が守る。』
幼い日の約束だった。
「勉強が嫌いで、よく先生に叱られていました。」
懐かしそうに笑う。
「そのたびに私まで一緒に叱られてしまって。」
リリアナの口元も思わず緩む。
「礼儀作法の練習も、一緒によく頑張りました。」
一つひとつは小さな思い出だった。
けれど、その積み重ねは、気づけば十年以上になっていた。
「昨日は……とても悲しかったです。」
ぽつりと零れたその一言に、昨日という一日の重さが滲んでいた。
「でも。」
エレノアはゆっくりと顔を上げる。
「嫌いには、なれませんでした。」
応接室が静まり返る。
クラリスは穏やかな口調で問いかけた。
「それは恋愛感情でしょうか。」
エレノアは少し困ったように笑う。
「……分かりません。」
小さく首を横に振った。
「気づけば、殿下が隣にいるのが当たり前でした。」
「だから、恋なのか、それとも別の気持ちなのか……私にも分からないんです。」
少し照れたように目を伏せる。
「でも。」
その瞳には、もう迷いはなかった。
「支えたいと思っています。」
短い言葉だった。
しばらく誰も口を開かなかった。
静かな空気の中、おずおずとリリアナが顔を上げる。
「あの……。」
「何でしょう。」
エレノアは優しく微笑んだ。
リリアナは一度視線を落とし、膝の上でぎゅっと手を握る。
「失礼でしたら、ごめんなさい。」
「どうして……そこまで殿下を信じられるんですか。」
その一言に、クラリスも静かにエレノアを見る。
責めるような響きはなかった。
純粋な疑問だった。
エレノアは少しだけ目を丸くすると、ふっと優しく笑った。
「そうですね。」
窓の外へ視線を向ける。
「今の殿下だけを見れば、そう思われても仕方ありません。」
少しだけ目を細めた。
「でも、私は幼い頃の殿下を知っています。」
「困っている人を見ると、放っておけない方でした。」
「使用人のお子さんが泣いていれば、一番に駆け寄るような方でしたし。」
「転んだ私に、真っ先に手を差し伸べてくださったのも殿下でした。」
懐かしそうに笑う。
「勉強は苦手でしたけれど。」
「とても優しい方だったんです。」
リリアナは静かに耳を傾けていた。
「だから。」
エレノアはゆっくりとリリアナを見る。
「今の殿下が、本当の殿下だとは思えないんです。」
「少し道に迷ってしまっただけ。」
「私は、そう信じたいんです。」
リリアナは何も言えなかった。
その言葉が、あまりにも真っ直ぐだったから。
クラリスは静かに頷く。
「では、仮に殿下が変わられなかった場合は。」
エレノアは間を置かなかった。
「その時は。」
まっすぐクラリスを見つめる。
「私が、この婚約を終わらせます。」
静かな声だった。
けれど、その決意だけは揺るがない。
クラリスはしばらくエレノアを見つめていた。
やがて静かに手帳を閉じる。
「ありがとうございます。」
その一言に、エレノアは少しだけ目を丸くした。
「お話を伺い、安心いたしました。」
「婚約を続けたい理由が、義務ではなく、ご自身の意思だと分かりましたので。」
エレノアは安堵したように息をつく。
「……ありがとうございます。」
クラリスは穏やかに微笑んだ。
「本件は婚約解消案件ではなく、婚約関係の調整案件としてお預かりいたします。」
リリアナが小さく首を傾げる。
「調整案件、ですか?」
「はい。」
クラリスは二人をまっすぐ見つめた。
「王立婚約管理局は、婚約を解消するためだけの役所ではございません。」
「契約は、人を縛るためのものではありません。」
一拍置く。
「人を守るためのものです。」
その言葉は、静かな応接室へゆっくりと溶けていく。
「ですから私たちは、まず契約を守る方法を考えます。」
エレノアは小さく微笑んだ。
「安心して、お任せできますね。」
クラリスも微笑み返す。
「ありがとうございます。」
クラリスは静かに頷いた。
「必ず、最善の形を見つけてみせます。」
その穏やかな声には、不思議と人を安心させる力があった。




