4話
クラリスは応接室の前で足を止めた。
扉を三度、軽く叩く。
「失礼いたします。」
扉を開くと、淹れたての紅茶の香りがふわりと漂った。
窓から差し込む柔らかな朝の光の中、公爵令嬢エレノア・フォン・ローゼンベルクは静かにティーカップを傾けていた。
昨夜、卒業記念舞踏会で婚約破棄を宣言された当人とは思えないほど、その所作は落ち着き払っていた。
クラリスの姿に気付くと、エレノアはティーカップをそっとソーサーへ戻し、穏やかに微笑んだ。
「お待ちしておりました。」
クラリスは一礼し、その向かいへ腰を下ろした。
「状況はいかがでしたか?」
「書類不備です。」
「でしょうね。」
エレノアは小さく笑った。
驚く様子も、落胆する様子もない。
最初から分かっていたようだった。
「実は今朝、公爵家にも連絡が参りました。」
「婚約破棄についてですか。」
「ええ。」
エレノアは上品に頷く。
「父は『殿下は婚約を何だと思っておられるのだ』と呆れ、それから大笑いしておりましたわ。」
「それはまた……。」
「殿下は婚約を恋人同士のお付き合い程度にお考えだったようです。」
「婚約は契約ですので。」
「契約ですわね。」
二人の認識にずれはなかった。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「失礼いたします。」
受付担当の職員が扉を開け、一礼する。
「クラリス様。リリアナ・フォン・ウェストン様がお見えです。」
「お通ししてください。」
職員に促され、おずおずと応接室へ入ってきたリリアナは、部屋へ入るなり深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
震える声だった。
目元は赤く、昨夜からほとんど眠れていないことが一目で分かる。
「どうぞ、お掛けください。」
クラリスが席を勧める。
リリアナは恐る恐る歩み寄り、クラリスの隣へ腰を下ろした。
エレノアの隣の席は空いていたが、さすがにそこへ座るほど無作法ではないらしい。
差し出された紅茶へ口をつける。
一口。
二口。
震えていた手が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「あの……私、本当に何も知らなくて……。」
「そうでしょうね。」
エレノアは責めるような口調ではなく、安心させるように微笑んだ。
「昨日のご様子を見れば分かりますもの。」
その言葉に、リリアナの目に涙が滲む。
「ありがとうございます……。」
小さく呟くと、リリアナは膝の上で手を握り締めた。
「家へ帰ったら、お父様もお母様も大騒ぎで……。」
ぽつり、ぽつりと話し始める。
「使用人のみんなも心配していて……。」
「今朝は、知らない方から手紙まで届きました。」
クラリスは顔を上げた。
「手紙、ですか。」
「はい……。」
リリアナは俯く。
「『人の婚約者を奪った女』って……。」
応接室に静かな沈黙が流れる。
「皆さん、私が殿下を誘惑したと思っていて……。」
震える声が途切れる。
「私は……。」
その時だった。
「私は思っておりません。」
静かに口を開いたのはエレノアだった。
リリアナが顔を上げる。
「昨日のあなたを拝見しておりました。」
エレノアは優しく微笑む。
「殿下のお言葉に、一番驚いていらしたのは、リリアナ様ご本人でしたもの。」
「エレノア様……。」
「あなたが謝る必要はございません。」
一瞬だけ躊躇うように視線を落としたあと、エレノアはそっとハンカチを差し出した。
「どうぞ。」
リリアナは目を潤ませながら受け取る。
「……ありがとうございます。」
クラリスは二人のやり取りを静かに見届けると、手帳を開いた。
「それでは、事実関係を確認させていただきます。」
羽ペンを取る。
「リリアナ様。」
「は、はい。」
「殿下から正式に想いを告げられたことはございますか。」
「ありません。」
「お二人きりでお会いになったことは。」
「ありません! そのようなことは一度も!」
思わず身を乗り出すような勢いだった。
クラリスは静かに頷く。
「承知いたしました。」
さらさらと羽ペンが走る。
「文通は。」
「ございません。」
「贈り物は。」
「いただいておりません。」
クラリスは最後まで書き留めると、小さく頷いた。
「参考になります。」
リリアナは思わず目を丸くした。
「な、何のですか!?」
「事情聴取記録です。」
さらさらと羽ペンが走る。
「後日、『そのような発言はしていない』となる場合がございますので。」
「そ、そこまで記録するんですか?」
「過去に、そのような事例がございましたので。」
クラリスは淡々としていた。
「……あったんですか。」
「ございました。」
あまりにも迷いのない即答だった。
リリアナは思わずクラリスを見つめる。
「婚約管理局って……大変なんですね。」
「珍しいことではございません。」
エレノアが思わず口元を隠して笑う。
その穏やかな笑顔につられるように、リリアナの表情にもようやく笑みが戻った。
重苦しかった応接室の空気が、少しだけ和らぐ。
クラリスは最後の一行を書き終えると、静かに手帳を閉じた。
「ありがとうございます。」
二人へ順番に視線を向ける。
「おおよその事情は把握いたしました。」
そして、姿勢を正した。
「では、一つ確認させていただいてもよろしいでしょうか。」
応接室の空気が静かに引き締まる。
ここから先は、書類には記されない当事者の想いを確かめる時間だった。




