3話
応接室の扉を三度、軽く叩く。
「失礼いたします。」
クラリスが一礼して部屋へ入ると、ソファから勢いよく立ち上がる人物がいた。
「来たぞ!」
第一王子レオナルドだった。
その後ろには数名の側近たちが控えている。
その中には、昨日の卒業記念舞踏会でも王子の傍らにいた青年――セドリック・フォン・アルトナーの姿もある。
他の側近たちとは対照的に、その表情はどこか浮かない。
しかし、当のレオナルドだけは違った。
なぜか得意満面である。
「婚約破棄の手続きだ!」
「承りました。」
クラリスは穏やかに微笑み、王子の正面へ腰を下ろした。
「それでは、必要書類をご提出ください。」
「書類?」
「はい。」
王子は眉をひそめる。
「婚約破棄だぞ?」
「はい。」
「昨日、皆の前で宣言した。」
「卒業記念舞踏会でのことですね。存じております。」
「だから婚約破棄だ。」
「手続きが完了しておりませんので、現在も婚約中です。」
沈黙。
「……何?」
クラリスは慣れた手つきで机の引き出しから一冊の冊子を取り出した。
分厚い。
辞書ほどの厚みがある。
「王立婚約管理法第三章第二節。婚約解消申請についてご説明いたします。」
「説明はいらん。」
「必要です。」
「なぜだ。」
「規則ですので。」
王子の顔が引きつった。
その横で、セドリックが小さく口を開く。
「殿下……ひとまず説明だけでも。」
「セドリック、お前は黙っていろ!」
「……失礼いたしました。」
クラリスは何事もなかったかのように冊子を開いた。
「まず、婚約解消申請書。」
「ない。」
「双方の署名。」
「ない。」
「保証人二名。」
「ない。」
「家門承認印。」
「ない。」
「資産分割確認書。」
「ない。」
「共同事業精算書。」
「そんなものあるのか!?」
「ございます。」
クラリスは淡々と答える。
「王家とローゼンベルク公爵家の共同投資事業が七件ございますので。」
「知らん!」
「知らなくても存在はします。」
正論だった。
王子は言葉に詰まる。
「なお、婚約期間が十年以上ですので。」
「そうだが?」
「解消慰謝料算定資料も必要です。」
「慰謝料!?」
「はい。」
「なぜ私が払う!」
「婚約破棄を申し出た側だからです。」
「そんな馬鹿な!」
クラリスは冊子を開いたまま答える。
「王立婚約管理法第五十二条に定められております。婚約相手に重大な契約違反が認められない場合、婚約解消を申し出た側が補償責任を負います。」
「契約違反ならある!」
レオナルドは勢いよく身を乗り出した。
「エレノアは冷たい!」
クラリスは羽ペンを手に取る。
「記録いたします。」
さらさらとペン先が走る。
「申請理由、『冷たい』。」
「そうだ!」
クラリスは羽ペンを止めた。
「念のため確認いたします。」
「何だ。」
「ご記入いただくのは、契約違反に該当する事実です。」
「冷たいでは駄目なのか!」
「精神的なご感想になりますので。」
「違いは何だ!」
「かなり違います。」
きっぱりと言い切った。
「具体的には。」
「……。」
「いつ。」
「……。」
「どのように。」
「……。」
王子は黙った。
クラリスは待った。
窓口職員として、模範的な対応だった。
「ございませんか?」
「……ない。」
「では、主観的なご感想ということでよろしいですね。」
「……そうなる。」
「承知いたしました。」
クラリスは一行書き加える。
「契約違反には該当いたしません。」
ばっさりだった。
その時、セドリックが一歩前へ出る。
「失礼ながら、クラリス様。」
「はい。」
「殿下は真実の愛を見つけられたのです。」
レオナルドは満足そうに大きく頷く。
「そうだ! 真実の愛の前では、政略婚約など意味を持たない!」
クラリスは静かに頷いた。
「承知いたしました。」
再び羽ペンを取る。
「申請理由に『真実の愛』と記載いたします。」
「そうしてくれ!」
セドリックもどこか安堵したような表情を浮かべた。
しかし。
「なお、添付資料をご提出ください。」
セドリックが首をかしげる。
「……添付資料、ですか?」
「真実の愛証明書です。」
二人の動きが止まった。
「そんなものあるのか!?」
レオナルドが叫ぶ。
「ございません。」
「ないのですか!?」
今度はセドリックが思わず声を上げた。
「ございませんので、提出は不要です。」
クラリスは真顔だった。
応接室を沈黙が包む。
だが、クラリスはさらに続ける。
「なお、過去にも同様のお問い合わせはございました。」
「あるのか!?」
「ございます。」
レオナルドとセドリックの声が重なる。
「作成要望もございましたが、法務部に却下されました。」
「法務部!?」
「真実の愛は客観的な証明が困難との判断です。」
今度こそ、二人は何も言えなくなった。
やがてレオナルドは必要書類一覧を乱暴に掴み取る。
「……分かった。」
大きく息を吸い込んだ。
「一度出直す!」
「承知いたしました。」
クラリスは引き出しを開ける。
「申請書一式をお持ちになりますか。」
「……。」
「全二十七枚ございます。」
「いらん!」
そう言い捨てると、レオナルドは不機嫌そうに応接室を後にした。
側近たちも慌ててその後を追う。
最後にセドリックだけが足を止め、小さく頭を下げた。
「……失礼いたしました。」
「お気をつけてお帰りください。」
クラリスは穏やかに一礼する。
応接室の扉が閉まり、ようやく静寂が戻った。
クラリスは机の上に広げられた書類を一枚ずつ揃え、分厚い法令集を元の場所へ戻す。
王族であっても、貴族であっても。
手続きの前では、皆等しく一人の申請者である。
それが王立婚約管理局の在り方だった。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「失礼いたします。」
受付担当の職員が扉を開け、静かに頭を下げた。
「クラリス様。」
「はい。」
「エレノア・フォン・ローゼンベルク様がお見えです。」
クラリスは一瞬だけ目を瞬かせた。
昨日、卒業記念舞踏会で婚約破棄を宣言された当人。
来庁は、決して不思議なことではなかった。
「応接室へご案内してください。」
そう答えるクラリスの声は、先ほどまでと何一つ変わらず穏やかだった。




