2話
広間は、水を打ったように静まり返っていた。
誰もが耳を疑い、誰もが目の前の光景を信じられずにいる。
卒業記念舞踏会。
その華やかな祝宴の壇上で、第一王子レオナルドは、公爵令嬢エレノア・フォン・ローゼンベルクとの婚約破棄を宣言したのだ。
「私は真実の愛を見つけた!」
堂々と言い放つ王子の声だけが、広間によく響く。
その視線の先に立っていたのは、子爵令嬢リリアナ・フォン・ウェストン。
突然すべての注目を浴びた彼女は、驚いたように目を見開き、その場に立ち尽くしていた。
「……え?」
小さく漏れた声は、ざわめきにかき消される。
「まさか……」
「本当に婚約を破棄するつもりなのか?」
「こんな公の場で……?」
貴族たちは互いに囁き合う。
婚約とは個人同士の約束ではない。
家と家が結ぶ契約であり、ときには王国の政治すら左右する約定でもある。
まして相手は、公爵家。
その婚約を卒業記念舞踏会の壇上で、一方的に破棄するなど前代未聞だった。
しかし当のレオナルドは、周囲の反応など意に介さない。
「私が愛するのはリリアナだ! 真実の愛の前では、古い契約など意味を持たない!」
熱に浮かされたようなその言葉に、広間の空気はさらに重くなる。
誰もがエレノアへ視線を向けた。
突然婚約を破棄された当人である彼女は、どんな表情を浮かべるのか。
泣き崩れるのか。
怒りを露わにするのか。
だが。
エレノアは静かだった。
ゆっくりとレオナルドを見つめ、小さく一礼する。
「……承知いたしました。」
その声は驚くほど穏やかだった。
「ですが、殿下。」
凛とした声が広間に響く。
「婚約は、口頭では解消できません。」
「何……?」
「正式なお手続きをお願いいたします。」
レオナルドは目を丸くした。
「手続きだと?」
「はい。」
エレノアは落ち着いた様子で続ける。
「婚約の解消には、必要書類の提出と受理が必要です。」
一瞬の静寂。
そして、広間は再びざわめきに包まれた。
そうだ。
婚約は契約である。
契約には手続きがある。
それは貴族であれば誰もが知る常識だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
王都中央区。
王宮外郭庁舎第三棟。
そこには王国でもっとも地味で、もっとも恐れられる役所が存在していた。
その名も――王立婚約管理局。
貴族間の婚約登録、婚約変更、婚約解消。
さらには結婚予定日の管理に至るまで、婚約に関するあらゆる手続きを担う特殊機関である。
王都の貴族たちからは、密かに「恋愛より書類を愛する者たち」と恐れられていた。
もっとも、それは決して誇張ではない。
貴族社会は契約社会。
婚約は恋愛ではなく、家と家を結ぶ法的契約でもある。
ゆえに婚約破棄にも正式な手続きが必要だった。
必要書類を揃え、双方の意思を確認し、法務審査を経て、初めて婚約は解消される。
それが、この国の決まりだった。
そして、その決まりを日々守り続けているのが、この王立婚約管理局である。
朝の鐘とともに庁舎の扉が開き、職員たちが次々と執務室へ向かう。
クラリスもまた、自席へ着くと、机の上に置かれた本日の予定表へ目を通した。
婚約届が三件。
婚約内容変更届が一件。
照会依頼が二件。
そして、本日予定されている婚約解消手続きは――ゼロ件。
クラリスは予定表を閉じず、そのまま静かに見つめる。
昨夜、卒業記念舞踏会で起きた出来事が脳裏をよぎった。
第一王子レオナルドによる婚約破棄宣言。
あれだけ大勢の前で宣言した以上、今日にも何らかの動きがあるかもしれない。
もっとも、正式な手続きを行うのであれば、通常は事前に管理局へ連絡が入る。
予定表に記載がない以上、正式な申請は受理されていないということだ。
だからこそ、クラリスはいつもどおり書類の確認を始めた。
契約は、人を守るためのもの。
一枚の書類が、一人の人生を守ることもある。
だからこそ、どんな案件であっても手を抜くことはできない。
その時だった。
執務室の扉が勢いよく開かれる。
「ク、クラリス様!」
受付担当の若い職員が、息を切らせながら飛び込んできた。
「た、大変です!」
執務室中の視線が、その職員へ集まる。
クラリスは慌てることなく顔を上げた。
「どうしました?」
「第一王子レオナルド殿下がご来庁されています!」
その一言に、室内がざわつく。
「第一王子殿下が?」
「なぜ管理局へ……?」
職員たちの戸惑う声が小さく漏れる。
クラリスだけは静かな表情を崩さなかった。
「ご用件は?」
「婚約解消のお手続きとのことです!」
クラリスは一瞬だけ予定表へ視線を落とす。
本日、婚約解消手続きの予定――なし。
「……そうですか。」
静かに予定表を閉じる。
そして椅子から立ち上がると、いつもと変わらない穏やかな口調で告げた。
「応接室へご案内してください。」
執務室が静まり返る。
——第一王子を迎える準備が、静かに始まった。




