↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王立婚約管理局 ~婚約破棄には必要書類がございます~  作者: 焔
婚約破棄には必要書類がございます
PR
1/9

1話

王都の春は、花の香りよりも先に噂を連れてくる。


 王立学院の卒業記念舞踏会ともなれば、なおさらだった。


 煌めくシャンデリアの下、令嬢たちのドレスは花園のように揺れ、貴公子たちの礼服は磨き上げられた銀器のように光を返している。楽団の奏でる優雅な旋律。甘い菓子と葡萄酒の香り。笑い声。囁き声。


 そのすべてが、今夜という日を祝福しているように見えた。


 少なくとも、クラリス・フォン・アシュベリーにはそう見えていた。


「……今年も、無事に終わりそうですね」


 壁際に立ったクラリスは、手元の小さな帳面に視線を落としながら呟いた。


 彼女は王立婚約管理局に勤める伯爵令嬢である。


 王立婚約管理局。


 貴族間の婚約締結や解消を管理する王国機関である。華やかな舞踏会とは無縁の、紙と印章と規則に囲まれた職場だった。


 けれど、こうした場にまったく無関係というわけでもない。


 卒業記念舞踏会は、若い貴族たちにとって社交界への本格的な門出であり、同時に婚約関係が大きく動きやすい日でもある。


 卒業を機に婚約を正式発表する者。

 長年の約定を確認し合う者。

 あるいは、密かに問題を抱えている者。


 だから管理局の職員は、毎年数名、控えとして会場に派遣される。


 とはいえ、今夜のクラリスの仕事は、ほとんど見守りに近かった。


 何かが起きない限り、彼女が表に出ることはない。


 何も起きないことが、一番良い。


 クラリスはそう考えていた。


 契約とは、人を縛るためだけのものではない。

 人を守るためにある。


 だからこそ、祝いの場で無用な混乱など起きない方がいいに決まっている。


 会場の中央では、第一王子レオナルド殿下が一際多くの視線を集めていた。


 金糸のような髪に、王家特有の澄んだ青い瞳。若く、華やかで、将来を期待された王子。


 その傍らに立つのは、公爵令嬢エレノア・フォン・ローゼンベルク。


 深い薔薇色のドレスを纏った彼女は、背筋をまっすぐに伸ばし、誰に対しても礼を失わない微笑みを浮かべている。


 幼い頃から定められた、王子と公爵令嬢の婚約。


 この国の貴族で、その事実を知らぬ者はいない。


 クラリスもまた、管理局の記録で幾度となくその名を目にしていた。


 婚約締結年月日、承認者、後見人、王家印、公爵家印。


 書類上は、何一つ問題のない婚約だった。


 ――少なくとも、書類上は。


 ふと、クラリスは会場の一角に視線を向けた。


 淡い水色のドレスを着た少女が、緊張した面持ちで立っている。


 ――子爵令嬢リリアナ・フォン・ウェストン。


 確か、今年卒業予定だったはずだ。未だ婚約届は提出されていない。


 彼女の周囲には数人の令嬢がいたが、その輪の中でリリアナだけがどこか落ち着かない様子だった。


 視線の先にいるのは、レオナルド殿下。


 クラリスは帳面を閉じた。


 何かある。


 そう思った瞬間だった。


 楽団の音が、ふいに途切れた。


 会場の空気がわずかに揺れる。


 レオナルド殿下が、中央へ進み出たのだ。


 その隣にいたエレノアだけが、ほんの一瞬目を伏せた。


 けれどすぐに顔を上げ、いつものように静かな微笑みを浮かべた。


「皆、聞いてほしい」


 王子の声が、広間によく通った。


 卒業生たちのざわめきが収まる。貴族たちが扇の陰で視線を交わす。誰もが、王子から何らかの祝辞が述べられるのだと思っていた。


 クラリスも、そうであってほしいと思った。


 だが次の瞬間、レオナルド殿下はエレノアへ向き直った。


 そして、まるで舞台の上の騎士のように声を張る。


「エレノア・フォン・ローゼンベルク。私は、君との婚約を破棄する!」

 


 広間から、音が消えた。

 


 笑い声も、囁き声も、グラスの触れ合う音さえも。


 誰もが息を呑み、信じられないものを見るように壇上を見つめる。


 王子はなおも声を張る。


「私は真実の愛を見つけた!」


 その言葉とともに、彼が振り返った先にいたのは、子爵令嬢リリアナ・フォン・ウェストンだった。


 突然、何百もの視線を浴びたリリアナは、驚いたように目を見開き、その場に立ち尽くす。


 会場が大きくざわめいた。


 幼い頃より結ばれていた王子と公爵令嬢の婚約。


 誰もが揺るがないと信じていた婚約が、今まさに、大勢の貴族たちの前で覆されようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。