1話
王都の春は、花の香りよりも先に噂を連れてくる。
王立学院の卒業記念舞踏会ともなれば、なおさらだった。
煌めくシャンデリアの下、令嬢たちのドレスは花園のように揺れ、貴公子たちの礼服は磨き上げられた銀器のように光を返している。楽団の奏でる優雅な旋律。甘い菓子と葡萄酒の香り。笑い声。囁き声。
そのすべてが、今夜という日を祝福しているように見えた。
少なくとも、クラリス・フォン・アシュベリーにはそう見えていた。
「……今年も、無事に終わりそうですね」
壁際に立ったクラリスは、手元の小さな帳面に視線を落としながら呟いた。
彼女は王立婚約管理局に勤める伯爵令嬢である。
王立婚約管理局。
貴族間の婚約締結や解消を管理する王国機関である。華やかな舞踏会とは無縁の、紙と印章と規則に囲まれた職場だった。
けれど、こうした場にまったく無関係というわけでもない。
卒業記念舞踏会は、若い貴族たちにとって社交界への本格的な門出であり、同時に婚約関係が大きく動きやすい日でもある。
卒業を機に婚約を正式発表する者。
長年の約定を確認し合う者。
あるいは、密かに問題を抱えている者。
だから管理局の職員は、毎年数名、控えとして会場に派遣される。
とはいえ、今夜のクラリスの仕事は、ほとんど見守りに近かった。
何かが起きない限り、彼女が表に出ることはない。
何も起きないことが、一番良い。
クラリスはそう考えていた。
契約とは、人を縛るためだけのものではない。
人を守るためにある。
だからこそ、祝いの場で無用な混乱など起きない方がいいに決まっている。
会場の中央では、第一王子レオナルド殿下が一際多くの視線を集めていた。
金糸のような髪に、王家特有の澄んだ青い瞳。若く、華やかで、将来を期待された王子。
その傍らに立つのは、公爵令嬢エレノア・フォン・ローゼンベルク。
深い薔薇色のドレスを纏った彼女は、背筋をまっすぐに伸ばし、誰に対しても礼を失わない微笑みを浮かべている。
幼い頃から定められた、王子と公爵令嬢の婚約。
この国の貴族で、その事実を知らぬ者はいない。
クラリスもまた、管理局の記録で幾度となくその名を目にしていた。
婚約締結年月日、承認者、後見人、王家印、公爵家印。
書類上は、何一つ問題のない婚約だった。
――少なくとも、書類上は。
ふと、クラリスは会場の一角に視線を向けた。
淡い水色のドレスを着た少女が、緊張した面持ちで立っている。
――子爵令嬢リリアナ・フォン・ウェストン。
確か、今年卒業予定だったはずだ。未だ婚約届は提出されていない。
彼女の周囲には数人の令嬢がいたが、その輪の中でリリアナだけがどこか落ち着かない様子だった。
視線の先にいるのは、レオナルド殿下。
クラリスは帳面を閉じた。
何かある。
そう思った瞬間だった。
楽団の音が、ふいに途切れた。
会場の空気がわずかに揺れる。
レオナルド殿下が、中央へ進み出たのだ。
その隣にいたエレノアだけが、ほんの一瞬目を伏せた。
けれどすぐに顔を上げ、いつものように静かな微笑みを浮かべた。
「皆、聞いてほしい」
王子の声が、広間によく通った。
卒業生たちのざわめきが収まる。貴族たちが扇の陰で視線を交わす。誰もが、王子から何らかの祝辞が述べられるのだと思っていた。
クラリスも、そうであってほしいと思った。
だが次の瞬間、レオナルド殿下はエレノアへ向き直った。
そして、まるで舞台の上の騎士のように声を張る。
「エレノア・フォン・ローゼンベルク。私は、君との婚約を破棄する!」
広間から、音が消えた。
笑い声も、囁き声も、グラスの触れ合う音さえも。
誰もが息を呑み、信じられないものを見るように壇上を見つめる。
王子はなおも声を張る。
「私は真実の愛を見つけた!」
その言葉とともに、彼が振り返った先にいたのは、子爵令嬢リリアナ・フォン・ウェストンだった。
突然、何百もの視線を浴びたリリアナは、驚いたように目を見開き、その場に立ち尽くす。
会場が大きくざわめいた。
幼い頃より結ばれていた王子と公爵令嬢の婚約。
誰もが揺るがないと信じていた婚約が、今まさに、大勢の貴族たちの前で覆されようとしていた。




