轍
俺は、隊商の先頭まで走った。
ガルドは、馬を止めて、谷の先を見ていた。そのすぐ横に、ブルーノがいた。
「隊長」
「何だ」
「轍が、あります」
息が切れていた。言葉が、うまく並ばなかった。
「新しい轍です。昨日の夜の雨のあとに、できてます。荷車が一台、俺たちと同じ方向に行って、あの曲がり角で、林に入ってます」
「それで」
「出てきた跡が、ないです」
ガルドは、黙って俺を見た。
「前を見ても、荷車は見えません。この谷は、ずっと先まで見えるのに。だから、その荷車は、まだ林の中にいます」
「薪を取りに入ったんだろ」
ブルーノが、面倒くさそうに言った。
「このへんの百姓は、雨上がりに、林に薪を拾いに行く」
「薪なら、出てきます。夜中から、今朝までの間に入って、まだ出てきてないんです」
「林の中に、炭焼き小屋でもあるんだろ」
「……荷車を林に隠して、何をするんですか」
ブルーノの顔が、少しだけ、こわばった。
「お前、何が言いたい」
「待ち伏せです」
俺は言った。
「誰かが、あの林の中で待ってます。塩を積んで逃げるための、荷車を用意して」
ブルーノが、笑い出した。
腹を抱えて、大声で笑った。後ろの部下の二人も、つられて笑った。
「轍一本で、待ち伏せか。たいした名探偵だ」
笑い声を聞きつけて、トマスが荷車から降りてきた。焼き菓子の袋を、大事そうに抱えていた。
「何だ、何事だ」
「灰狼団の子守りの子が、林にお化けがいるとさ」
「お化け」
「待ち伏せだと。轍を見て」
トマスは、俺を見て、それから林を見た。
谷の両側の丘は、静かだった。風が吹いて、木の葉がざわざわ鳴っているだけだった。鳥の声もした。
「……戻れと言うのか」
トマスの声が、低くなった。
「ここまで来て。宿場町まで、あと半日だぞ。戻ったら、一日、いや二日の損だ。塩は、湿気る。値が落ちる。誰が、その分を払う」
「戻れとは、言ってません。ただ」
「ただ、何だ」
答えられなかった。
見えたのは、轍だけだった。林の中に、人の姿は見えなかった。矢も、剣も、何も見えなかった。
見えないものを、見えたとは言えなかった。
「見えない敵を怖がるのは、臆病者だ」
後ろから、声がした。
セイルだった。いつの間にか、ガルドの馬の横に立っていた。
「もし本当に待ち伏せがいるなら、出てきたところを、斬ればいい。それだけの話だ」
ブルーノが、口笛を吹いた。
「おっ。灰狼団にも、話の分かるのが一人いるじゃねえか」
セイルは、ブルーノのほうを見なかった。俺のほうも、見なかった。
俺は、黙った。
ゴードンさんの笑い声が、また聞こえた。
鳥追いが、鳥目か。
◇
ガルドが、馬を降りた。
何も言わずに、俺の来た道を、歩いて戻っていった。水たまりの横で、しゃがみ込んだ。
轍の縁を、指でなぞった。
それから、立ち上がって、曲がり角まで歩いた。轍が林に入っていくところを、しばらく見ていた。
最後に、谷の両側の丘を、ゆっくり見回した。
戻ってくると、トマスに言った。
「戻らない」
トマスが、ほっと息をついた。ブルーノが、にやりと笑った。
「ただし、隊列を変える」
「……変える?」
「荷車の間を、詰めろ。一台ごとに、馬一頭分の隙間しか空けるな。曲がり角は、止まらずに、速足で抜ける」
ガルドは、それから、俺たち四人を順番に指さした。
「セイル。お前は、俺と一緒に左だ。林の側」
「……はい」
「ドッジ。トマスの荷車の、御者台の横。盾を左に構えろ。ずっとだ」
「はい」
「エルナ。最後尾から、真ん中の荷車の上に移れ。塩袋の上に、伏せとけ。弓は張っとけ」
エルナは、黙ってうなずいた。
「ブルーノ。お前の三人は、荷車の右だ」
「右? 敵が来るなら、林のほう、左だろうが」
「だから、右だ」
ガルドは、それ以上説明しなかった。
最後に、御者たち五人を集めた。
「矢が来たら、荷車の右に飛び降りて、伏せろ。荷車を盾にしろ。馬は放っとけ。塩も放っとけ」
「塩も」
トマスが、悲鳴みたいな声を出した。
「塩は、あとで拾える。死んだら、拾えない」
ガルドは、俺を見た。
「リオ。お前は、右の丘に上がれ。上から、左の林を見ろ。何か見えたら、叫べ。旗はいらん。声でいい」
「……はい」
ガルドは、それで話を終えて、馬に戻った。
隊列が、組み直されていった。
ブルーノが、鼻を鳴らして、右側へ回った。トマスは、ぶつぶつ言いながら、荷車に戻った。
信じてもらえた、とは、思わなかった。
ガルドは、何も言わなかった。待ち伏せがいるとも、いないとも。
ただ、戻らない、と言って、隊列を変えた。
それが、どういうことなのか、俺にはまだよく分からなかった。
◇
右の丘を、駆け上がった。
背の低い草と、岩ばかりの斜面だった。上まで登ると、谷の道が、真下に見えた。その向こうに、左の丘の林。
荷車が、動き出した。
さっきまでより、ずっと詰まっていた。五台の荷車が、一本の長い蛇みたいに、くっつき合って進んでいく。
一番前の荷車の御者は、ヤンという、俺と同じくらいの歳の男だった。
昨日の夜、野営の火のそばで、少しだけ話した。宿場町の先の村に、母さんと妹がいると言っていた。妹は七つで、今度の給金で、赤い靴を買ってやるのだと言っていた。
ヤンは、丘の上の俺に気づいて、御者台から手を振った。
俺は、手を振り返さなかった。
林を、見ていた。
木の幹。枝。葉の重なり。風で揺れる形。揺れない形。
いつもの形を、探した。
ここは、物見台から見る森とは違う。初めて見る林だった。いつもの形なんて、知らなかった。
それでも、見た。
風は、谷の奥から、こっちへ吹いていた。木の葉は、全部、同じ方向に裏返っていた。
白っぽく。
一か所だけ、葉が裏返っていなかった。
曲がり角の、少し手前。太い木の、低い枝のあたり。そこだけ、葉が、風に逆らって、こっちを向いていた。
誰かが、枝を押さえていた。
枝の向こうで、何かが、光った。
一瞬だけ。
昼前の日の光を、鉄が、はね返した光だった。
矢じりだった。
俺は、叫ぼうとした。
口を開けた。
その瞬間、林の中から、矢が来た。
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