弓
「エルナ!」
叫んだ。
「東門の上! 弩! ドッジを狙ってる!」
靴屋の屋根の上で、エルナが、身を起こした。
俺の声が、届いたのかどうか、分からなかった。でも、エルナは、東門の上を見ていた。最初から、見ていたのかもしれない。
エルナは、膝立ちになった。
弓を、引いた。
靴屋の屋根から、東門の上の見張り台まで、六十歩くらいあった。間に、通りが一本と、屋根が二つ。風は、川のほうから吹いていた。
エルナは、引いたまま、止まっていた。
一。二。
放った。
矢は、黒い羽根の兜に、当たった。
当たって、跳ね返った。
兜が、少しだけ傾いた。男の頭が、揺れた。それだけだった。
男が、こっちを見た。
エルナを見た。
弩の先が、ほんの少しだけ、動いた。
でも、すぐに、また下を向いた。ドッジと、親父さんに。
エルナを撃つより、門の下の大男を撃つほうが先だと、決めたのだ。門を一人でふさいでいた男を。
エルナは、二本目を、つがえていた。
引いた。
俺は、エルナを見ていた。
鐘楼の上から、エルナの横顔が、よく見えた。
いつもの、何の表情もない顔だった。
でも、左の肩が、こわばっていた。
右手で弓を引きながら、左の肩に、力が入っていた。
分かった。
エルナは、考えていたのだ。
魔法なら、届く。
黒石原の谷の入り口で、地面を裂いて、岩壁を割った。あの青い光なら、東門の上の見張り台ごと、男を落とせる。
矢は、跳ね返された。
弩は、ドッジを向いている。
でも、ここは、リンデの町の真ん中だった。
通りにも、窓にも、屋根の上にも、人がいた。町の人たちが、子どもたちが、壁の上の団員たちが、ベルントの騎士たちが。
この町じゅうの目の前で、青い光を出したら。
エルナは、息を、吐いた。
止めなかった。
吐いた。
痛いとき、息を止めない。止めると、光るから。
母さんに教わったことを、エルナは、今度は守っていた。
二本目を、放った。
矢は、男の、右の肩に刺さった。
弩を構えていた腕の、付け根。
男が、のけぞった。弩が、手から離れかけた。
でも、落ちなかった。
男は、左手で、弩を握り直した。歯を食いしばって、もう一度、構えた。
片手で。
弩の先が、揺れながら、ドッジに向いた。
ドッジは、まだ、起き上がれていなかった。
親父さんが、ドッジの上に、覆いかぶさった。
大きな背中を、弩のほうに向けて。
三本目。
エルナは、もう、つがえていた。
俺は、エルナの指を見ていた。弦を引く指が、少しも、震えていなかった。
ロク村の切れ目で、熊の左目を射たときと、同じだった。
四十歩先の的に、三本、真ん中に刺したときと、同じだった。
訓練の初日、何も言わずに弓を下ろして、中庭をしんとさせたときと、同じだった。
エルナは、引いた。
息を、吐いた。
放った。
矢は、まっすぐ飛んだ。
川からの風に、少しだけ流されて。
それで、ちょうど、よかった。
男の兜と、鎧の襟の、わずかな隙間に。
喉に。
男の手から、弩が、落ちた。
弩は、見張り台の縁に当たって、跳ねて、門の外に落ちていった。
男は、しばらく、立ったままだった。
それから、見張り台の手すりを越えて、門の外側に、ゆっくりと崩れ落ちた。
門の外の黒鴉の兵たちが、ざわめいた。
見張り台を見上げていた。黒い羽根の兜が、見えなくなった見張り台を。
誰かが、何か叫んだ。
東門の前の黒い列が、揺れた。
あの刃物みたいに揃っていた列が、初めて、揃わなくなった。
ベルントの騎士たちが、その揺れたところに、もう一度、突っ込んだ。
黒い列が、川原のほうへ、下がっていった。
エルナは、靴屋の屋根の上で、弓を下ろしていた。
肩で、息をしていた。
左の肩を、右手で押さえていた。
光っては、いなかった。
エルナは、鐘楼を見上げた。
俺と、目が合った。
エルナは、何も言わなかった。言っても、聞こえない距離だった。
ただ、小さく、うなずいた。
俺も、うなずいた。
エルナは、屋根から、するりと下りていった。
門の下の、ドッジのところへ。腰の薬の袋を、押さえながら。
◇
二十五。
鐘を、一つ。
三十。
赤い光が、南の壁に落ちた。
鐘を、二つ。
俺は、川の向こう岸を見た。
黒い天幕の前に、背の低い影が、まだ立っていた。鎖の先に。
ヴォルグは、いなかった。
さっきまで、ミラの横に立っていた、頭一つ大きな影が、どこにもいなかった。
探した。
川原。いない。東門の外。いない。南の壁の穴。
いた。
南の壁の、魔法で開いた穴から、町の中に入ってきていた。
黒い鎧の兵を、十人ほど連れて。
ベルントの騎士たちは、東門に回っていた。南の穴の前は、がら空きだった。
ヴォルグは、南の通りを、まっすぐ北へ歩いていた。
急いでいなかった。
大剣を、肩に担いでいた。
南の通りは、まっすぐ、広場に続いていた。
広場には、町の人たちがいた。
戦えない人たちが。年寄りと、女たちと、小さな子どもたちが。鐘楼の下の、町の真ん中に、集まっていた。
一番、安全だと思われていた場所に。
俺は、鐘の綱を、つかんだ。
三回。
ヴォルグが来たら、三回。
一回目を、引いた。
広場の真ん中で、セイルが、鐘楼を見上げた。
二回目を、引いた。
セイルが、南の通りのほうを見た。
ヴォルグが、広場の入り口に、姿を現した。
広場の人たちが、悲鳴を上げた。逃げようとして、ぶつかり合った。小さな子どもが一人、石畳に転んだ。
ヴォルグの横の兵が、剣を抜いて、その子のほうへ歩き出した。
三回目を、引く前に。
セイルが、一人で、前に出た。
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