物見台
物見台は、砦の北東の角に立つ、古い石の塔だった。
螺旋の階段を、百二十段のぼる。てっぺんは、大人が三人立てばいっぱいになるくらいの広さで、腰の高さの石の囲いがあるだけだった。屋根はない。
風が強かった。
そして、どこまでも見えた。
北には、灰色の山並み。国境に続く山道。東には、森。西には、畑と、遠くの丘。南には、なだらかな丘の下に、リンデの町の屋根と、川。その向こうに、街道。
村の見張り台の、何十倍も遠くまで見えた。
「合図を覚えろ」
ガルドは、旗竿を俺の手に握らせた。
「旗を一回振ったら、人だ。二回振ったら、獣。頭の上で回したら、火か、魔法」
「魔法」
「めったにない。あったら、振る前に逃げていい」
冗談なのか、本気なのか、分からなかった。
「見えたものは、全部、下に知らせろ。見間違いでもいい。見間違いで笑われても、死にはしない」
ガルドは、そこで少し黙った。
「見えたのに黙ってたら、誰かが死ぬ」
俺は、うなずいた。
あの夜の、ゴードンさんの笑い声が、耳の奥で鳴った。
◇
物見台の仕事は、退屈だった。
朝から夕方まで、ただ見る。何も起きない。雲が流れて、鳥が飛んで、街道を荷車がのろのろ通る。それだけだった。
下の中庭では、ほかの三人が、剣と盾と弓の訓練をしていた。
見下ろすと、セイルが、ドッジを木の剣で転がしているのが見えた。ドッジは、盾があるときは一歩も下がらないのに、盾を取り上げられると、ころころ転がった。エルナは、端のほうで黙々と的を射ていた。
俺だけが、塔の上で、空を見ていた。
外された、という気がした。
でも、目だけは、休まなかった。退屈な景色を、毎日見ていると、少しずつ、景色の「いつもの形」が頭に入ってきた。
森の端の、あの木は、風が吹くと右に揺れる。
街道の三つ目の曲がり角には、昼過ぎに、決まって鹿が出る。
南の斜面には、毎日、羊が放されている。番をしているのは、団員の子どもで、十歳くらいの男の子だ。昼になると、木の陰で居眠りをする。
そういうことが、一つずつ、分かってきた。
朝早くにも、のぼった。
夜明けの中庭で、セイルが一人で剣を振っていた。誰もいない時間に、誰にも見せずに、同じ型を、何百回も繰り返していた。
俺は、それを、塔の上から見ていた。
セイルは、気づいていなかった。
◇
六日目に、ドッジが物見台にのぼってきた。
「罰だってさ」
ドッジは、肩で息をしながら言った。百二十段は、大男にはきつかったらしい。
「何をしたんだ」
「四杯目」
「……ああ」
「マーサ婆ちゃんが、隊長に言いつけた。半日、物見台で頭を冷やせって」
ドッジは、石の囲いにもたれて座り込んだ。俺の横で、しばらく景色を眺めていた。
「すげえな、ここ。リンデの、うちの鍛冶場まで見える」
「どれだ」
「あの、煙が出てるとこ」
「煙なら、十本くらい出てるぞ」
「一番、黒いやつだ。親父は、炭をけちる」
俺は、町の煙を一本ずつ見た。たしかに、一本だけ、やけに黒かった。
ドッジは、すぐに飽きた。
飽きると、腹が鳴った。
ドッジの腹の音は、ドッジのいびきと同じくらい大きかった。ぐうう、と、低く長く鳴って、塔の石に響いた。
下の、門の見張りが二人、ぱっとこちらを見上げた。
手で、何か合図をよこしてきた。
何か見えたのか、という合図だった。
「……違う。腹だ」
俺が手を振って打ち消すと、見張りの二人は、顔を見合わせて、肩をすくめた。
「俺の腹、合図になるのか」
「ならない。ならないから、鳴らすな」
「鳴らそうと思って、鳴らしてるわけじゃない」
ドッジは、悲しそうに腹をさすった。
◇
日が傾きかけたころだった。
東の森の端で、草が揺れた。
最初は、風だと思った。今日は、西から風が吹いていた。草は、東に向かって倒れる。森の端の、あの木も、右に揺れている。いつもの形だった。
一か所だけ、違った。
草が、西に向かって分かれていた。
風に、逆らっていた。
何かが、草の中を、低く、こっちへ動いていた。
俺は、囲いから身を乗り出した。目を細めた。
草の切れ目から、灰色の背中が、一瞬だけ見えた。
また一つ。また一つ。
「ドッジ」
「ん」
「狼だ」
数えた。七つ。灰色の毛並みで、背中に沿って、黒い筋が一本通っている。
灰牙狼だった。セラ村でも、冬になると、一頭か二頭、山から下りてきた。七頭もの群れは、見たことがなかった。
群れは、南へ向かっていた。
南の斜面。羊。
木の陰で、男の子が、居眠りをしていた。
俺は、旗竿をつかんだ。
二回、振った。獣の合図だ。思い切り、大きく振った。
下を見た。
門の見張りは、こっちを見ていなかった。さっきの、ドッジの腹のせいだった。また腹か、と思われたのかもしれない。
もう一度、振った。
誰も、見上げなかった。
あの夜と、同じだった。叫んでも、誰も、
「――狼だああああっ!」
横で、ドッジが叫んだ。
腹の音より、いびきより、ずっと大きな声だった。砦じゅうに響いた。中庭の団員が、一斉に塔を見上げた。
「南の斜面だ! 羊のとこだ! 狼が、七頭!」
俺の言った数を、ドッジがそのまま叫んでいた。
門が開いた。
ボリスが、剣を抜いて、真っ先に飛び出していくのが見えた。団員が五、六人、後に続いた。
男の子が飛び起きて、羊を追って、丘を駆け下りた。
森の端の草むらが、大きく揺れた。灰牙狼の群れが、身を翻して、森の中に消えていった。
羊は、一頭も、やられなかった。
◇
しばらくして、ガルドが、塔をのぼってきた。
息ひとつ、乱れていなかった。
「何頭だった」
「七頭です」
「ほかに」
「一頭、右の後ろ足を、引きずってました。群れの、一番最後の」
ガルドは、下を見た。
門の前で、戻ってきたボリスが、こっちを見上げて、大きな声で叫んでいた。
「七頭だ! 一頭、びっこを引いてやがった! 右の後ろ!」
ガルドは、何も言わなかった。
片方だけの目で、俺を見た。
ほんの少しだけ、何かが、変わった気がした。初めて会った朝、灰の中の俺を見たときの目とは、違っていた。
「……旗の振り方は、悪くない」
ガルドは言った。
「振っても誰も見てないときは、どうする」
「……分かりません」
「今日、分かったろ」
ガルドは、ドッジを見た。
ドッジは、きょとんとしていた。
「声のでかいやつを、隣に置いとけ」
ドッジが、照れくさそうに、頭をかいた。腹が、また鳴った。
夕飯のとき、マーサ婆さんが、俺とドッジの椀に、黙って肉を一切れずつ多く入れた。
セイルは、それを見ていた。何も言わなかった。
エルナが、俺の前に、木の椀をひとつ置いた。湯気が立っていた。草の匂いがした。
「目」
エルナは、それだけ言った。
「……目?」
「疲れる。飲んで」
三言目と、四言目だった。
苦かった。ものすごく、苦かった。でも、飲み終わると、目の奥の重さが、少し軽くなった。
食べ終わるころ、食堂の入り口に、ヘルガが立った。
帳簿を、一冊、小脇に抱えていた。
「第七班」
四人とも、顔を上げた。
「仕事だ。明後日、塩の隊商の護衛につく。リンデから、南の宿場町まで、三日の道のりだ」
ヘルガは、にっこり笑った。
やっぱり、怖かった。
「初仕事だよ。死ぬんじゃないよ。飯代が、まだ貸しっぱなしだからね」
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