帳面
帰りの山は、行きより遠かった。
黒鴉の追手を避けて、ガルドの地図にない谷を、二つ余計に回った。雪の稜線を、もう一度、ロープでつないで渡った。今度は、誰も、何も言わなかった。言わなくても、順番は決まっていた。
セイルは、ずっと黙っていた。
欠けた剣を、腰に下げたまま、一番前を歩いていた。足場の悪いところで、後ろを待つのは、行きと同じだった。
ドッジは、ひび割れた盾を背負っていた。
「捨てないのか」
「捨てない。親父に、直してもらう」
「直せるのか、あれ」
「直せなくても、見せる。ヴォルグの剣を受けた盾だって」
ドッジは、盾のひびを、指でなぞった。
「親父、たぶん、怒る。盾を割るなって」
「怒るのか」
「怒って、それから、直す。親父は、そういう人だ」
エルナは、帳面を、懐から一度も出さなかった。
夜、火のそばで、油紙の上から、何度も手で触って、確かめていた。
十日目の朝、砦が見えた。
丘の上の、古い石の壁。だらりと垂れた、灰色の狼の旗。
その手前の街道に、馬の列が見えた。
二十頭。いや、もっと。
鎧が、朝日を跳ね返していた。青地に、白い塔の旗。
王国騎士団だった。
列の先頭近くに、灰色の外套が一つ、混じっていた。
「……間に合った」
ドッジが、つぶやいた。
「ぎりぎりだ」
俺は、丘を駆け上がった。
◇
砦の中庭に、騎士たちが並んでいた。
灰狼団の団員たちが、その向かいに、黙って立っていた。ヘルガが、一番前にいた。ガルドが、その横で、壁にもたれていた。
騎士たちの前に、オーベルが立っていた。
その横に、背の高い騎士。黒い髪に、白いものが少し混じっていた。
ベルントだった。
オーベルが、ヘルガに向かって、何か言っていた。穏やかな声だった。
「――お約束の、十日です。騎士団の方々の立ち会いのもとで、改めて検めさせていただきます。薬師の娘を、前へ」
ヘルガは、答えなかった。
門のほうを、見ていた。
俺たちが、門をくぐるのを、見ていた。
「団長」
俺は、息を切らして、中庭の真ん中まで走った。
騎士たちが、一斉に、俺を見た。
オーベルが、振り返った。俺の顔を見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
俺は、オーベルを見なかった。
ベルントの前に、立った。
「灰狼団、第七班です」
声が、震えていた。
「ベルント隊長に、見てほしいものがあります」
エルナが、俺の横に来た。
懐から、油紙の包みを出した。
包みを解いた。
分厚い帳面が、一冊。
表紙の革に、鴉の焼き印。左の翼の先が、少しだけ欠けていた。
中庭が、ざわめいた。
ベルントは、帳面を受け取った。
黙って、開いた。
ページを、めくった。一枚。また一枚。
ベルントの顔が、少しずつ、硬くなっていった。
エルナが、横から、手を伸ばした。あるページを、指で示した。
「ここ。それから、ここ。ここも」
審問官オーベルより。審問官オーベルより。審問官オーベルより。
ベルントは、そのページを、長い間見ていた。
それから、顔を上げた。
オーベルを見た。
「……面白いものを、お持ちですね」
オーベルは、微笑んでいた。
穏やかな顔のままだった。
「黒鴉の帳面、ですか。傭兵が、傭兵の帳面を持ってくる。ずいぶん都合のいい話です」
「偽物だと」
ベルントが訊いた。
「偽物でしょう。墨と紙さえあれば、誰の名前でも書ける。審問を逃れるために、灰狼団が作ったものです」
オーベルは、俺を見た。
「十日あれば、帳面の一冊くらい、作れますからね」
「作ってない」
俺は言った。
「黒鴉の砦の、塔の中から取ってきた。ザルム谷の。ヴォルグの机の上から」
「証拠は」
「……」
「その帳面が、黒鴉の塔にあったという証拠は」
答えられなかった。
俺が見た。エルナが見た。それだけだった。
傭兵の言葉だった。
ベルントが、帳面を、閉じた。
「審問官殿の言うとおりです」
ベルントは、言った。
俺の胸が、冷たくなった。
「これだけでは、審問官は裁けない。王都の審問院は、傭兵の持ってきた帳面一冊で、魔導院の人間を罰したりはしない」
「では」
オーベルが、ヘルガのほうを向きかけた。
「ただし」
ベルントが、続けた。
「この帳面が本物かどうか、確かめないまま、灰狼団の団員を連れていくこともできない。この中には、王国の民の名前と、村の名前が書いてある。本物なら、王国の民が、黒鴉に売られている」
ベルントは、帳面を、自分の脇に抱えた。
「この帳面は、騎士団が預かる。それと、灰狼団の審問も、騎士団が預かる。この件が片づくまで」
「……ベルント隊長」
オーベルの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「それは、魔導院の審問に、騎士団が口を出すということですか」
「王国の民の話をしています。騎士団の仕事です」
ベルントは、オーベルを、まっすぐ見た。
ベルントは、俺に向き直った。
「帳面を裁くには、証人がいる」
「……証人」
「この帳面に書かれている者の、誰か。売られた子ども本人か、売った側か、買った側か。その口から、この帳面が本物だと言わせることができれば、審問院も、動かざるをえない」
売られた子ども本人。
ミラだった。
黒鴉の塔の上で、鎖につながれて、ろうそくの火を見ている。
ザルム谷の、山の向こう。
オーベルは、しばらく黙っていた。
それから、また、穏やかに微笑んだ。
「分かりました。騎士団のご判断に、従いましょう」
オーベルは、丁寧に頭を下げた。
「私は、リンデの町の宿に、しばらく滞在いたします。王都に報告を送って、返事を待ちますので」
オーベルは、灰色の外套の裾を翻して、門のほうへ歩いていった。
俺の横を通るとき、何も言わなかった。
俺を、見もしなかった。
それが、前より、ずっと怖かった。
◇
昼過ぎ、ベルントが、ガルドの前に立った。
ガルドの、右の肩の先を見た。
「……隊長。腕を」
「黒石原でな。気にするな」
「気にします」
「黒石原で、お前が小隊を回してくれた。あれがなきゃ、第三隊は、あの日に全部死んでた。腕一本じゃ、釣りが来る」
ベルントは、何か言おうとして、やめた。
かかとを揃えて、拳を胸に当てた。
夕方、砦の門を、馬が一頭、駆け込んできた。
汗で、毛並みが黒く濡れていた。乗っていたのは、リンデの町の、東の見張り番だった。
男は、馬から転がり落ちるように降りて、叫んだ。
「黒鴉だ!」
中庭が、凍りついた。
「黒鴉が、国境を越えた! 二百、いや、もっと! 東の山を下りて、川沿いに!」
男は、息を切らしながら、南を指さした。
「――リンデに向かってる!」
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