完敗
「行って」
ミラが言った。
「見つかる前に。早く」
「ミラ」
「団長は、ときどき、夜に川の上の橋を見回る。足音で分かる。今日は、来る」
ミラは、窓の外を、顎で指した。
「橋を渡ったら、川沿いの道に出る。リオ兄たちが来た道に」
俺は、動けなかった。
エルナが、俺の腕をつかんだ。
「リオ」
「……」
「今、連れていけない。でも、帳面がある」
エルナは、俺の懐を、指で叩いた。
「これがあれば、灰色の人が終わる。灰色の人が終われば、もう、別の子は売られない」
ミラが、エルナを見た。
初めて、エルナに気づいたみたいな顔だった。
「……あなたも」
エルナは、答えなかった。
答えないまま、ミラの目を、まっすぐ見返した。
ミラは、何かを分かったみたいに、小さくうなずいた。
「必ず、迎えに来る」
俺は言った。
「必ずだ、ミラ」
ミラは、もう、こっちを見ていなかった。
膝を抱えて、ろうそくの火を、見ていた。
◇
ロープを伝って、崖を下りた。
下りながら、下を見た。
川沿いの道で、セイルが、剣を振っていた。黒い鎧の兵が、三人。いや、四人。一人が倒れて、残りが、セイルを囲んでいた。
ドッジは、崖の下で、ロープの端を握ったまま、動かなかった。言われたとおりに。錨だった。
俺とエルナが、地面に足をつけると、ドッジがロープを放した。
「見回りだ」
ドッジが、早口で言った。
「三日間いなかったのに、今夜だけ来た。四人。セイルが、二人斬った」
壁の上で、角笛が鳴った。
低い、長い音だった。
砦じゅうに、灯りがともっていった。
見つかった。
「走れ!」
セイルが叫んだ。
残っていた兵を、蹴り倒して、こっちへ駆けてきた。
四人で、川沿いの道を、下流へ走った。
来た道だった。三日間、何度も目で歩いた道だった。岩の出っ張り。倒れた木。浅瀬。全部、覚えていた。
後ろで、砦の門が開く音がした。馬の蹄の音がした。
道は、少し先で、大きく曲がっていた。川が、岩壁にぶつかって、向きを変える場所だった。
曲がり角の向こうに、松明が見えた。
十本。
橋を渡って、先回りしてきたのだ。
松明の列の真ん中に、頭一つ大きな影が立っていた。
背中の大剣を、ゆっくりと、抜いていた。
ヴォルグだった。
前に、ヴォルグと十人。
後ろから、砦の追手。
片側は、川。片側は、岩壁。
逃げ場が、なかった。
「……殿だ」
セイルが、言った。
足を止めて、剣を構えた。
「俺が、止める。お前たちは、川を渡れ。浅瀬がある。三日目に見ただろう」
「セイル」
「斬り合うとは、言っていない」
セイルは、前を見たまま、言った。
「止めるだけだ。お前たちが川を渡るまで。渡ったら、俺も行く」
その声は、黒石原の谷の入り口で、殿に残ったガルドの声に、少しだけ似ていた。
一人で十分だ、とは、言わなかった。
「四人で帰るために、止める」
俺は、セイルの背中を見た。
それから、うなずいた。
「……すぐ来いよ」
「すぐ行く」
ヴォルグが、歩いてきた。
十人の兵は、動かなかった。ヴォルグが、手で止めていた。
「灰狼団か」
低い声だった。大きな体に似合わない、静かな声だった。
「塔に、何をしに来た」
セイルは、答えなかった。
剣先を、ぴたりと、ヴォルグの喉に向けていた。
ヴォルグは、セイルの剣先を見た。
「いい構えだ」
ヴォルグは、言った。
「騎士の剣だな。若い」
ヴォルグが、大剣を、肩に担いだ。
次の瞬間、大剣が、振り下ろされていた。
速かった。
あんなに大きな剣が、セイルの剣と同じくらい、速かった。
セイルは、受けた。受けて、横に流した。流しながら、ヴォルグの脇へ回り込もうとした。
ヴォルグは、もう、そこにいなかった。
半歩、下がっていた。
左の足を、一歩、引いていた。
大剣が、また来た。横から。セイルは、身をかがめてかわした。かわしたところに、ヴォルグの蹴りが来た。セイルの体が、岩壁に叩きつけられた。
セイルは、すぐに起き上がった。
斬りかかった。
一太刀。二太刀。三太刀。熊の喉を一太刀で斬った剣だった。黒石原で、黒鴉の兵を何人も斬った剣だった。
ヴォルグは、全部、受けた。
受けるたびに、大剣を振り抜いて、そのあと必ず、左の足を、元の位置に引き戻した。
まるで、そうしないと立っていられないみたいに。
俺は、川の浅瀬に足を入れながら、それを、見ていた。
目が、勝手に、数えていた。
振る。引く。振る。引く。
一度も、違わなかった。
四太刀目で、セイルの剣が、弾かれた。
セイルの手から、剣が、離れかけた。
ヴォルグの大剣が、セイルの胸に向かって、まっすぐ伸びた。
セイルは、かわせなかった。
かわす体勢では、なかった。
生まれて初めて、俺は、セイルが負けるのを見た。
灰色の壁が、割り込んだ。
ドッジだった。
浅瀬から、引き返していた。盾を、ヴォルグの大剣の前に、突き出していた。
大剣が、盾にめり込んだ。
ドッジの体が、後ろに吹っ飛んだ。セイルを巻き込んで、二人一緒に、岩壁に転がった。
盾が、真ん中から、ひび割れていた。
「――エルナ!」
俺は叫んだ。
エルナが、腰の袋から、丸い包みを一つ、俺に放った。
崖の薬草と、乾いた苔を、油で練って丸めたもの。三日目の夜に、エルナが、火のそばで作っていたものだった。
煙玉。
道の端に、セイルが斬った見回りの兵の松明が、転がっていた。まだ燃えていた。
俺は、包みから垂れた短い紐を、その火に押しつけて、ヴォルグの足元に、投げた。
白い煙が、噴き出した。
川沿いの道が、真っ白になった。
煙の中で、エルナの弓が、鳴った。
ヴォルグの、うめく声がした。肩か、腕か、どこかに当たったのだと思う。
「浅瀬だ! 四人とも!」
煙の中で、ドッジの腕をつかんだ。ドッジが、セイルの腕をつかんでいた。エルナが、俺の背中をつかんだ。
四人、つながったまま、川に飛び込んだ。
◇
川は、冷たかった。
浅瀬を渡りきって、向こう岸の森に、転がり込んだ。
追手の松明が、川の向こうで、右往左往していた。夜の川を渡ってくる者は、いなかった。
森の奥まで走って、ようやく止まった。
四人とも、ずぶ濡れだった。
帳面は、エルナの油紙に包んで、懐の奥に入れてあった。濡れていなかった。
ミラは、いなかった。
連れてこられなかった。
ドッジが、ひび割れた盾を見下ろしていた。
「……割れた」
「お前は」
「割れてない。盾だけ」
セイルが、木の根元に、座り込んでいた。
剣を、膝の上に置いていた。刃が、欠けていた。ヴォルグの大剣を受けたところだった。
セイルは、欠けた刃を、じっと見ていた。
長い間、何も言わなかった。
それから、小さな声で、言った。
「……あいつに、勝てる気がしない」
初めて聞く声だった。
夜明けの中庭で、一人で剣を振っていたセイルの声とは、まるで違った。
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