ミラ
四日目の夜、月は細かった。
川沿いの岩場を、四人で、崖の下まで進んだ。水の音が、足音を消してくれた。
崖の下で、止まった。
見上げると、塔が、夜空に黒く突き出していた。一番上の窓に、ろうそくの灯り。その下の窓は、暗い。
「上るのは、俺とエルナ」
俺は、小声で言った。
「エルナは、字が読める。帳面を探す。俺は、上の部屋を見る」
「俺は」
ドッジが言った。
「下で、ロープの端を持っててくれ。俺たちが下りてくるとき、ロープを張ってほしい。ドッジなら、二人ぶら下がっても、動かない」
「錨だな」
「錨だ」
「セイルは、川沿いの道を見張ってくれ。三日間、見張りは出なかった。でも、もし誰か来たら」
「斬る」
「斬るのは、最後でいい。先に、ドッジに知らせて」
セイルは、少しだけ黙ってから、うなずいた。
壁の上の見張りが、門のほうへ歩いていくのが見えた。
交代の時刻だった。
百。
俺は、崖に、手をかけた。
◇
崖は、冷たかった。
岩の出っ張りに指をかけて、足をかけて、体を持ち上げる。三日間、目で何度も登った崖だった。どこに手をかければいいか、全部、頭に入っていた。
村の見張り台の梯子より、ずっと高かった。
下を見なかった。
三十。
崖の縁を越えて、塔の壁に取りついた。古い石の隙間に、指を差し込んだ。
六十。
下の窓に、たどり着いた。窓には、鉄の格子がはまっていた。古くて、錆びていた。一本が、根元から、ぐらついていた。三日目に、見つけていた。
格子を、ゆっくり、ずらした。
体を、窓の中に押し込んだ。
九十。
腰のロープを、格子の残りの一本に、結びつけた。下に、二回、引いて合図した。
百。
壁の上の見張りが、戻ってくる足音がした。
俺は、窓の中で、息を殺した。
足音は、通り過ぎていった。
少しして、エルナが、ロープを伝って上ってきた。
軽かった。窓から、するりと入ってきた。息ひとつ乱れていなかった。
「……速いな」
「ロープがあるから。下で、ドッジが持ってる」
部屋の中は、暗かった。
目が慣れてくると、中が見えてきた。
狭い部屋だった。壁際に、木の箱が、いくつも積み上げてあった。床に、革の袋が、何十も転がっていた。どの袋にも、鴉の焼き印があった。
部屋の真ん中に、机が一つ。
机の上に、分厚い帳面が、三冊。
エルナが、窓から差し込む細い月明かりに、帳面をかざした。
一冊目を開いて、めくった。
めくる手が、速かった。
「……銀貨。何月何日。誰に。いくら。全部、書いてある」
「野良のことは」
エルナは、二冊目を開いた。
しばらく、めくった。
手が、止まった。
「……ある」
エルナの声が、かすれた。
「審問官オーベルより。北部巡回にて。女児、一。刻印、背。ハルデ村。銀貨三百。下請け、十五騎、前金」
「……」
「審問官オーベルより。男児、一。刻印、腕。銀貨三百五十」
エルナは、ページをめくった。
何ページも。何年分も。
「審問官オーベルより。審問官オーベルより。審問官オーベルより」
エルナの指が、震えていた。
それから、あるページで、止まった。
エルナは、俺を見た。
黙って、帳面を、俺のほうへ向けた。
俺には、読めなかった。字は、少ししか読めない。
でも、その行の、地名のところだけは、読めた。
村の名前だけは、読めた。
セラ。
「……何て、書いてある」
エルナは、ためらった。
それから、低い声で、読んだ。
「審問官オーベルより。北部巡回にて。女児、一。刻印、腕。赤。セラ村。銀貨四百。強い刻印のため、上乗せ。下請け、二十騎、前金。村は、焼くこと」
村は、焼くこと。
それだけだった。
父さんも、母さんも、ハンス兄も、ヨアン兄も。
六十軒の家も。
その一行だった。
俺は、帳面を、閉じた。
閉じて、懐に、押し込んだ。
「……持っていく」
「一冊だけ?」
「二冊目が、野良の帳面だろ。それでいい。三冊全部なくなったら、すぐ気づかれる」
エルナは、うなずいた。
一冊目と三冊目を、元のとおりに、机の上に並べた。
◇
部屋の奥に、石の階段があった。
上の部屋に、続いていた。
階段の上に、木の扉があった。外側から、太い閂がかけてあった。鍵ではなかった。閂だった。
中にいる者が、出られないように。
閂を、そっと、外した。
扉を、開けた。
ろうそくが、一本、床に立っていた。
石の床。藁の寝床。水の入った桶。空の椀。
壁に、鉄の輪が打ちこんであって、そこから、鎖が伸びていた。
鎖の先に、女の子がいた。
窓の下の壁に、膝を抱えて、座っていた。
首に、黒い、太い、鉄の輪。
女の子が、顔を上げた。
ろうそくの明かりが、顔を照らした。
頬が、こけていた。肌が、灰みたいに白かった。髪が、ざんばらだった。
右の眉の上に、斜めの、白い傷。
黒石原の岩の上で、何も見ていなかった目が。
俺を、見た。
見て、少しずつ、大きく開いていった。
「……リオ、兄?」
声が、出なかった。
ミラだった。
見張り台の梯子を、慣れた手つきで登ってきたミラ。パンを半分に割ったミラ。鳴子がうるさいと、耳をふさいだミラ。
俺は、ミラの前に、膝をついた。
「……ミラ」
「リオ兄。なんで」
「迎えに来た」
ミラの目から、何かが、こぼれた。
ミラは、それを、手の甲で、乱暴にぬぐった。
「……生きてたの」
「生きてた」
「みんなは」
俺は、答えられなかった。
ミラは、俺の顔を見て、それで、分かったみたいだった。
うつむいた。
「……そっか」
エルナが、ミラの首の輪に、そっと触れた。
「鍵穴が、ない」
エルナは、言った。
「鋲で、打ちつけてある。道具がないと、外せない」
「鎖のほうは」
「太い。壁の輪も。音を立てずには、切れない」
俺は、鎖をつかんだ。
重かった。冷たかった。
「なら、壁ごと」
「行かない」
ミラが、言った。
俺は、ミラを見た。
ミラは、俺を見ていなかった。床のろうそくを、見ていた。
「行かない。リオ兄、帰って」
「何言ってるんだ」
「私が逃げたら」
ミラの声は、小さかった。
「また、別の村が焼かれる」
部屋の中が、静かになった。
「団長が、言ってた。お前が逃げたら、灰色の人から、別の子を買う。その子の村も焼く。何回逃げても、そのたびに、一つずつ」
ミラは、膝を抱えた腕に、力を入れた。
「セラ村みたいなのが、また、一つ」
ミラは、顔を上げた。
ろうそくの明かりの中で、ミラの目は、もう、何も見ていない目ではなかった。
「だから、行かない」
俺は、何か言おうとした。
言葉が、見つからなかった。
帳面の一行が、頭の中で鳴っていた。村は、焼くこと。
ミラは、その一行を、知っていたのだ。
この塔の上で、ずっと。
そのとき、塔の下から、音がした。
川沿いの道のほうから。
金属が、ぶつかり合う音だった。
剣の音だった。
セイルと、ドッジのいるほうから。
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