黒鴉の砦
ザルム谷の東の斜面に、大きな岩が張り出していた。
その上に、腹ばいになった。
ロク村の熊の巣を見下ろしたときと、同じ姿勢だった。違うのは、下にいるのが熊一頭ではなく、二百人だということだった。
黒鴉の砦は、思っていたより、ずっと大きかった。
古い修道院だった。灰色の石の建物が、中庭を囲むように、四つ並んでいた。そのまわりを、高い石壁が、ぐるりと囲んでいた。壁の上を、黒い鎧の見張りが、行ったり来たりしていた。
門は、南に一つだけ。
北の端は、川だった。砦の裏は、川に面した、切り立った崖になっていた。
その崖の縁に、塔が立っていた。
◇
一日目は、見張りの数を数えた。
壁の上に、八人。門に、四人。中庭に、いつも二十人くらい。夜になると、壁の上の見張りは、六人に減った。
交代は、夜明けと、昼と、日暮れ。毎日、同じ時刻だった。
エルナが、帳面に書いた。ロク村で使った帳面の、続きのページだった。
「見張りは、交代のとき、門の前に集まる。そのあいだ、壁の東側が、空になる。短い。百数えるくらい」
「百」
エルナが書いた。
「塔の入り口は、中庭の側に一つ。いつも、兵が一人立ってる。腰に、鍵の束を下げてる」
書く。
「日暮れに、大きな男が、箱を抱えて塔に入る。出てくるときは、手ぶら」
「大きな男」
「たぶん、団長だ」
ヴォルグだった。
遠くからでも、分かった。ほかの兵より、頭一つ大きかった。背中に、大剣を背負っていた。歩くたびに、まわりの兵が道を開けた。
セイルが、俺の横で、ヴォルグを見ていた。
何も言わなかった。でも、剣の柄に、手が触れていた。
夜になって、谷の向こう側の岩陰に下がって、火を起こした。
小さな火だった。煙が出ない、乾いた枝だけで。
その夜は、セイルが、飯を作ると言い出した。
「……作れるのか」
「作ったことはない」
「じゃあ、なんで」
「班で、飯は交代で作ると、マーサが言っていた。俺は、まだ一度も作っていない」
セイルは、鍋に、干し肉と、芋と、乾いた豆と、塩を入れた。
それから、水を入れた。
それから、また塩を入れた。
「……塩、さっき入れたぞ」
「知っている。家の料理番は、いつも塩を二回入れていた」
「一回の量が、違うと思う」
セイルは、聞かなかった。
出来上がったものを、四人で食べた。
誰も、口をきかなかった。
しょっぱかった。
ものすごく、しょっぱかった。トマスの塩の袋を、そのまま口に入れたみたいだった。豆は、まだ硬かった。芋は、溶けていた。
セイルは、自分の椀を、銀の匙で、黙って食べていた。表情が、まったく変わらなかった。
エルナが、一口食べて、そっと椀を置いた。
ドッジは、全部食べた。
おかわりもした。
「……うまいのか」
俺が訊くと、ドッジは、首を横に振った。
「まずい」
「なら、なんで」
「腹が減ってるから。それに、セイルが初めて作った飯だから」
セイルの匙が、止まった。
「……まずいなら、食べなくていい」
「食う。次は、塩一回にしろよ」
セイルは、何も答えなかった。
でも、次の日の朝、鍋に塩を入れるとき、一回で止めた。
◇
二日目も、見た。
塔を、見た。
塔は、四角い石の塔だった。修道院の鐘楼だったと、ガルドが言っていた。上のほうに、窓が二つあった。一番上の窓と、その下の窓。
昼間、窓は、どちらも暗かった。
日暮れに、兵が一人、盆を持って塔に入っていった。盆の上に、椀が一つ。
しばらくして、兵が、空の盆を持って出てきた。
「……飯だ」
ドッジが、ささやいた。
「誰かに、飯を運んでる」
「一人分」
エルナが言った。
「椀が、一つだった」
夜になると、一番上の窓に、灯りがついた。
小さな、ろうそくの灯りだった。
その下の窓は、暗いままだった。
日暮れにヴォルグが箱を持って入ったのは、下の階だった。灯りは、つかなかった。箱を置いて、すぐに出てきた。
一番上に、誰かがいる。
その下に、金と、たぶん帳面がある。
塔の裏側を、見た。
塔の裏は、川に面した崖だった。崖の縁から、塔の壁が、そのまま上に伸びていた。崖の下は、川だった。流れが速かった。
崖の側には、見張りが一人もいなかった。
崖を登ってくる者など、いないと思っているのだ。
でも、崖は、真っ平らではなかった。ところどころに、岩の出っ張りがあった。塔の壁も、古い石を積んだもので、石と石の間に、隙間があった。
登れる。
ロープがあれば。
「いつまで、見ているんだ」
二日目の夕方、セイルが言った。
「ガルドは、向こうで使えるのは四日だと言った。もう二日、使った。見ているだけで、四日が終わる」
「あと一日」
「なぜだ」
「見ないで入ったら、出てこられない」
俺は、塔を見たまま、言った。
「入り方は、分かった。出方が、まだ分からない。塔の上から、崖を下りて、川沿いに逃げる。それは分かる。でも、川沿いの道に、夜、見張りが出るのかどうか、まだ一回しか見てない。一回だと、たまたまかもしれない」
セイルは、黙った。
「ロク村の熊は、三日、同じことをした。だから、四人で倒せた。三日見ないと、いつもの形は分からない」
セイルは、しばらく、俺の横顔を見ていた。
それから、岩の上に、腰を下ろした。
「……分かった」
セイルは、言った。
「班長」
セイルが、俺をそう呼んだのは、初めてだった。
俺は、塔から目を離さなかった。
離したら、顔を見られる気がした。
◇
三日目の夜も、川沿いの道に、見張りは出なかった。
三日とも、同じだった。
作戦は、決まった。
明日の夜。見張りの交代で、壁の東側が空になる、百数える間。
帳面を閉じて、もう一度だけ、塔を見た。
一番上の窓に、ろうそくの灯りがついていた。
風が、谷を渡ってきた。
川の音に混じって、何かが、かすかに聞こえた。
金属の音だった。
じゃら、と。
細い鎖が、石の床を引きずる音だった。
塔の窓から、聞こえていた。
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