山越え
夜明け前、砦の門の前に、三人で集まった。
俺と、ドッジと、エルナ。
セイルは、来なかった。
昨日の夜、部屋に戻ってこなかった。寝床は、空のままだった。
「……どうする、班長」
ドッジが言った。
班長、と呼ばれて、胸の奥が、ずしりと重くなった。
「待つ」
「どれくらい」
「空が、白くなるまで」
三人で、門の前に立っていた。
息が、白かった。秋が、深くなっていた。北の山の上のほうは、もう、うっすら白くなっていた。
空の端が、少しずつ、明るくなっていった。
門の脇の、厩の陰から、足音がした。
セイルだった。
背中に、荷を背負っていた。腰に、剣を下げていた。ロープの束を、肩にかけていた。
俺たちの前まで来て、止まった。
何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
「……ロープは、俺が持つ」
セイルが、言った。
「重いものは、前を歩くやつが持つ。後ろで持つと、前が詰まる」
「分かった」
セイルは、門の外へ、歩き出した。
一番前を。
◇
一日目は、ずっと上りだった。
ガルドの地図の道は、黒石原へ行った峠道ではなかった。その東の、獣道みたいな細い道だった。国境の見張りがいない代わりに、道とも呼べないような斜面が、延々と続いた。
セイルは、一度も振り返らなかった。
一度も、口をきかなかった。
でも、足場の悪いところに来ると、必ず、そこで少しだけ足を緩めた。後ろが追いつくのを、待っていた。振り返らずに。
ドッジは、肩で息をしながら、ずっとしゃべっていた。
「なあ、リオ。山の向こうって、飯、何があるんだ」
「知らない」
「ガルムの芋って、うまいのかな」
「知らない」
「黒鴉の砦にも、食堂ってあるのかな。マーサ婆ちゃんみたいなのがいるのかな」
「……知らない」
「班長なのに、何にも知らないな」
「班長は、飯のことを知る係じゃない」
「じゃあ、何を知る係なんだ」
答えられなかった。
前を歩くセイルの背中が、ほんの少しだけ、揺れた気がした。
◇
二日目の昼に、雪の稜線に出た。
山の一番高いところだった。両側が切れ落ちていて、その間を、細い尾根が、向こうの山まで続いていた。尾根の上には、雪が積もっていた。踏み固められた跡は、一つもなかった。
尾根の途中に、一か所だけ、岩が崩れて、道が細くなっているところがあった。
足一つ分の幅だった。
片側は、雪の斜面。もう片側は、切り立った岩壁で、その下は、見えないくらい深い谷だった。
セイルが、そこで止まった。
初めて、振り返った。
「……ここを、渡る」
エルナが、足を止めていた。
顔が、真っ白だった。
ロク村の崖道を、思い出したのだと思う。濡れた岩で足を滑らせて、左の肩を裂いた、あの崖道。
エルナは、岩壁の下の谷を見て、それから、自分の足を見た。
動かなかった。
「俺が、先に行く」
俺は、言った。
「俺が先に渡って、向こうで、足場を確かめる。だめそうなら、俺だけ落ちる。そしたら、別の道を探せ」
「……は?」
ドッジの声だった。
振り返った。
ドッジが、俺を見ていた。
いつもの、のんきな顔ではなかった。
「今、何て言った」
「俺が先に行って、だめなら、俺だけ」
「ふざけんな」
ドッジの声が、雪の稜線に、響いた。
セイルも、エルナも、ドッジを見た。
ドッジが、こんな声を出すのを、初めて聞いた。物見台で、狼だと叫んだときとも、黒石原で、右だと叫んだときとも、違った。
怒っていた。
「お前、自分を、勘定に入れてねえだろ」
ドッジは、雪を踏んで、俺の前まで来た。
「谷の待ち伏せのときもそうだった。丘から、一人で駆け下りてきた。ロク村で、囮になったときもそうだった。煙の中に戻るときも、自分が一番前を行くって顔してた。いっつもそうだ」
「……それは」
「俺が残ります、俺が先に行きます、俺だけ落ちます。お前、そればっかりだ」
ドッジの大きな手が、俺の胸ぐらをつかんだ。
セイルにつかまれたときより、ずっと強かった。
「お前が落ちたら、誰が見るんだよ」
「……」
「轍を見るのも、熊の足跡を見るのも、煙の中で隊長を見つけるのも、全部、お前だろ。お前が落ちたら、俺たちは、目をなくすんだぞ。班長がいなくなるんだぞ」
ドッジの声が、震えていた。
「ボリスは、一番前で、騎馬を受け止めて死んだ。隊長の第三隊は、谷の入り口で、六人死んだ。一人で前に出るやつから、死んでいくんだ」
「……」
「それが、一番、班を殺すんだよ」
俺は、何も言えなかった。
ドッジの手が、ゆっくりと、離れた。
ドッジは、大きく息を吐いた。白い息だった。
「……ごめん。怒鳴った」
「いや」
「腹、減ってると、怒りっぽくなるんだ」
「さっき、干し肉食ってたろ」
「二枚しか食ってない」
エルナが、俺たちを見ていた。
さっきまでの、真っ白な顔ではなかった。少しだけ、口の端が動いていた。
セイルが、肩のロープを、下ろした。
「全員で、つなぐ」
セイルは、言った。
「一人ずつ、腰に巻く。間を、五歩ずつ空ける。一人が滑ったら、残りの三人で止める」
「……順番は」
俺が訊いた。
「俺が先頭だ」
セイルは、言った。
「先頭は、足場を探す。俺は、山道は下手だが、足場が崩れたときに、体を戻すのは得意だ。剣と同じだ」
「二番目は」
「エルナ」
エルナが、セイルを見た。
「前に俺がいて、後ろにリオがいる。どっちに滑っても、止める」
セイルは、ロープの端を、エルナに渡した。
「三番目が、リオ。班長は、真ん中にいろ。前も後ろも見える」
「……最後は」
「ドッジだ」
ドッジが、胸を張った。
「一番重いからな。錨だ」
「ドッジが落ちたら、全員落ちる」
「だから、俺は落ちない」
「落ちたら、の話だ」
「落ちない、の話をしてる」
セイルは、ため息をついた。
ロープを、自分の腰に、きつく巻いた。
◇
四人で、ロープをつないで、渡った。
足一つ分の幅の道を。
セイルが、一歩ずつ、雪を踏んで、足場を確かめた。エルナが、その足跡を、そのままなぞった。俺が、エルナの足元と、セイルの背中と、後ろのドッジを、順番に見た。ドッジが、ロープを、両手で握っていた。
途中で、一度、エルナの足元の雪が、崩れた。
エルナの体が、谷のほうへ傾いた。
ロープが、ぴんと張った。
前でセイルが、後ろで俺が、そのまた後ろでドッジが、同時に、足を踏ん張った。
エルナは、落ちなかった。
岩壁に手をついて、体を戻した。
俺を、振り返った。
「……大丈夫」
エルナが、言った。
「大丈夫。四人いるから」
尾根を渡りきると、向こう側が、見下ろせた。
深い谷が、北へ続いていた。谷の底を、川が流れていた。
ずっと先の、谷の奥に、煙が一本、立ち上っていた。
石造りの、灰色の建物が、川のそばに、寄り集まっていた。高い壁に囲まれていた。壁の内側に、塔が一本、空に向かって突き出していた。
塔のてっぺんに、黒い旗が、はためいていた。
ザルム谷。
黒鴉の巣だった。
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