十日
「……いいえ」
俺は、言った。
「会ったことは、ないと思います」
嘘だった。
オーベルは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、穏やかに微笑んだ。
「そうですか。人の顔を覚えるのは、得意なほうなのですが」
オーベルは、背を向けた。
灰色の外套の一行が、門を出ていった。丘を下って、街道のほうへ。
俺は、物見台に上らなくても、それを見ていた。見えなくなるまで、ずっと。
門が閉まると、エルナが、その場に座り込んだ。
食堂の壁に、背中をつけて。
左の肩の、焦げ茶色の痕が、壁にこすれていた。
エルナが、体を起こした。
壁に、焦げ茶色の筋が、べったりとついていた。
エルナの肩の痕が、半分、剥がれていた。その下から、青い枝の模様が、のぞいていた。
団員たちが、息をのんだ。
四十人が、それを見た。
エルナは、肩を押さえて、うつむいた。
誰も、何も言わなかった。
マーサ婆さんが、食堂の窓から、布巾を一枚、放ってよこした。
「壁、拭いときな。あたしの食堂の壁だよ」
それだけ言って、窓を閉めた。
◇
その夜、団長の部屋に、人が集まった。
ヘルガ。第一隊長のクルト。第二隊長の、ヨハンという痩せた男。ドッジに肩を借りて上ってきた、ガルド。
それと、第七班の四人。
机の上の帳簿の山は、脇にどけられていた。ランプが一つ、真ん中に置かれていた。
エルナは、ヘルガの前に、立っていた。
「……ごめんなさい」
エルナは、言った。
「隠してました。入るときから。ずっと」
「知ってたよ」
ヘルガは、言った。
エルナが、顔を上げた。
「何となくね。昼間、あんた、火傷だって言いながら、真っ青だった。火傷の痕を見られて、あんな顔をするやつはいない」
「……なら、なんで」
「知らなくても、渡さない。知ってても、渡さない。同じことだよ」
ヘルガは、腕を組んだ。
「うちの団員だ。飯代も、まだ返してもらってないしね」
「でも、十日後には、騎士団が来る」
クルトが言った。白い髭を、指でしごいていた。
「騎士団と喧嘩をしたら、灰狼団は終わる。王国の法に逆らった傭兵団は、どこからも仕事が来ない。砦も取り上げられる」
「分かってるよ」
「なら、どうする。その子を、逃がすか」
「逃がしたら、追われ続ける。この子も、うちも」
「私が、出ていきます」
エルナが、言った。
部屋の中が、静かになった。
「私一人なら、誰も罪にならない。灰狼団は、何も知らなかったことにすればいい。私は、どこか遠くへ」
「だめだ」
ドッジが、言った。
「飯は、班で食う」
「……ドッジ」
「掟だろ。班の誰かが倒れたら、班で運ぶ。置いていかない。飯は班で食う。お前が一人で出ていったら、俺たちは、三人で飯を食うことになる」
「でも」
「三人で食う飯は、まずい。ボリスがいなくなって、第三隊の飯、すげえまずくなったんだぞ」
セイルが、壁にもたれたまま、口を開いた。
「一人で行くのは、なしだ」
全員が、セイルを見た。
セイルは、エルナを見ていた。
「一人で出ていって、一人で何とかしようとするやつは、死ぬ。それか、まわりを死なせる」
セイルの声は、低かった。
「俺の兄が、そうだった」
ドッジが、セイルを見た。
セイルは、ドッジのほうを見なかった。
俺は、ヘルガを見た。
「団長」
「何だい」
「あの審問官を、知っています」
部屋の全員が、俺を見た。
話した。
セラ村の、村長の家の前。並ばされた子どもたち。ミラの腕を、ほかの子より少しだけ長く見ていた男。誰もいませんね、と言って帰った男。一か月後に、村が燃えたこと。
黒鴉の岩の上の、鎖の女の子のこと。右の眉の上の傷のこと。
話し終わると、誰も、口をきかなかった。
ランプの火が、じじっと鳴った。
「……ベルントが、言っていた」
ガルドが、口を開いた。
寝台に腰かけて、左手で、右の肩の先を押さえていた。
「黒石原の陣で、あいつと話した。あいつは、俺に、二つのことを言った」
ガルドは、左手の指を一本、立てた。
「一つ。ここ数年、ガルム側の傭兵団に、魔法使いがいるという噂が、増えている。黒鴉だけじゃない。どこから湧いたのか、誰にも分からない」
二本目。
「二つ。魔導院の中に、妙な審問官がいる。北の辺境の巡回を、十年以上、一人で受け持っている男だ。そいつの受け持ちの地区だけ、刻印持ちの登録が、やけに少ない」
ガルドは、一度、言葉を切った。
「そのくせ、たまに登録した子は、王都に着く前に、移送の途中で、病気で死ぬことが多い」
エルナの肩が、震えた。
「ベルントは、おかしいと思っていた。でも、証拠がない。審問官は、魔導院の人間だ。騎士団からは、手が出せない」
「その、審問官の名前は」
ヘルガが訊いた。
ガルドは、ヘルガを見た。
「オーベルだ」
部屋の中が、冷たくなった。
「見つけた野良を、登録しない」
ガルドは、ゆっくりと言った。
「登録しないで、黒鴉に売る。黒鴉は、下請けの野盗に、村を焼かせて、その子を攫う。登録した子は、移送の途中で、病死したことにして、やっぱり売る」
「……ミラは」
俺の声が、かすれた。
「ミラは、そうやって」
「たぶんな」
ガルドは、言った。
「エルナの母親が、どうなったかは、分からん。手紙が来ていたなら、王都には着いたんだろう」
エルナは、何も言わなかった。
唇を、噛んでいた。
「あいつは、この子を、登録するつもりじゃない」
ガルドは、エルナを見た。
「十日後に、騎士団を連れてきて、この子を連れていく。そして、王都に着く前に、病死したことにする」
「なら、証拠だ」
ヘルガが、言った。
「ベルントが手を出せないのは、証拠がないからだろう。証拠があれば、騎士団は、審問官を捕まえられる」
「証拠は、どこにある」
クルトが言った。
「黒鴉だ」
ガルドが、答えた。
「黒鴉の団長、ヴォルグは、金の勘定にうるさい男だ。下請けにも、印の袋で払う。袋を返させて、残りを払う。買ったものも、払った金も、全部、帳面につけてる」
「……野良を買った帳面が、あるってことか」
「ある。あの男なら、必ずつけてる。誰から、いつ、どこの村の、どの子を、いくらで買ったか」
ガルドは、北の窓を見た。
「黒鴉の拠点は、国境の向こうだ。山を越えて、二日」
「その帳面を、十日で取ってくる」
ヘルガは、言った。
「取ってきて、騎士団の前に突きつける。それで、あの審問官は終わりだ」
ヘルガは、机に両手をついた。
ランプの明かりの中で、部屋の全員を、順番に見た。
クルト。ヨハン。ガルド。
ドッジ。セイル。エルナ。
俺。
それから、いつものように、にっこり笑った。
やっぱり、怖かった。
「十日で、証拠を持ってきな」
ヘルガは、言った。
「誰が行く」
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