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渡さない

 エルナが、前に出た。

 一歩ずつ。ゆっくりと。

 中庭じゅうの目が、エルナを見ていた。

 オーベルの前で、止まった。

「お名前は」

「……エルナ」

「薬師の方ですね。腰の袋から、いい匂いがする」

 オーベルは、微笑んだ。

「では、袖を」

 エルナは、右の袖をめくった。細い腕だった。何もなかった。

 左の袖をめくった。何もなかった。

「背中を」

 エルナは、服の後ろを、少しだけ下ろした。オーベルは、エルナの背中を、長い指で、上から下へなぞった。

 エルナの肩が、こわばった。

「……肩を」

 エルナは、動かなかった。

「肩を、見せてください」

 エルナは、右手で、服の左の肩を、ずらした。


 焦げ茶色の痕があった。

 手のひらくらいの大きさだった。皮膚が、ひきつれたように、でこぼこして見えた。ところどころ、赤黒く光っていた。

 火傷の痕に、見えた。

 俺は、息を止めていた。

 あの下に、青い枝の模様がある。俺は、それを知っている。知っているのに、見えなかった。

 エルナの母さんの、薬だった。

「火傷ですか」

「……子どものころ。薬の鍋を、ひっくり返して」

「痛かったでしょう」

「……」

 オーベルは、焦げ茶色の痕を、じっと見ていた。

 長い間、見ていた。

「子どものころの火傷にしては」

 オーベルの声が、少しだけ、低くなった。

「ずいぶん、新しい色ですね」


 オーベルの右手が、持ち上がった。

 人差し指の先を、自分の舌で、湿らせた。

 その指先が、エルナの肩に、近づいていった。

 まだ、乾いていない。

 半刻には、足りていない。

 こすられたら、落ちる。

 俺は、動こうとした。

 足が、動いた。

 固まらなかった。剣も持っていないのに。一歩、前に出た。

 でも、俺より先に、誰かの手が、オーベルの手首をつかんでいた。


 ヘルガだった。

 いつの間にか、オーベルのすぐ横に立っていた。俺の腕より太い腕で、オーベルの細い手首を、握っていた。

「そこまでだよ」

 ヘルガは、言った。

 にっこり、笑っていた。

 中庭じゅうが、凍りついた。

 怖かった。

 初めてヘルガに会った日よりも、ずっと。

「審問官さん。袖は見たね。背中も見たね。肩も見た。火傷だった」

「……団長殿。これは、王国の法に基づく」

「王国の法は、あんたが一人で、娘っ子の肩を舐めた指でこすっていいとは、言ってないよ」

 オーベルの後ろで、魔導院の兵士が三人、槍を構えた。

 中庭の団員たちが、立ち上がった。

 四十人。

 剣を抜いた者はいなかった。でも、全員が、立ち上がっていた。片腕のガルドも、ドッジの肩につかまって、立っていた。

 ヘルガは、オーベルの手首を、放さなかった。

「この子は、うちの団員だ」

 ヘルガは、言った。

「渡さない」


 オーベルは、しばらく、ヘルガを見ていた。

 穏やかな顔のままだった。

 それから、ゆっくりと、手を下ろした。ヘルガが、手首を放した。

「……よく分かりました」

 オーベルは、手首を、もう片方の手でさすった。

「灰狼団の団長殿は、審問を拒まれた。そういうことですね」

「火傷を、火傷だと言っただけだよ」

「では、そのように、王都に報告いたします」

 オーベルは、魔導院の兵士たちに、槍を下ろさせた。

「十日後に、改めて伺います」

 オーベルは、言った。

「今度は、王国騎士団を連れて。騎士の立ち会いのもとで、改めて、検めさせていただきます。そのとき、もし野良が見つかれば――」

 オーベルは、中庭の団員たちを、ゆっくり見回した。

「匿った者は、全員、罪です。団長殿も。灰狼団も」

 中庭が、しんとした。

「十日あれば、お考えも変わるでしょう」

 ヘルガは、鼻で笑った。

「十日もあれば、うちの財布も覚悟を決めるさ」

「財布、ですか」

「騎士団を相手に喧嘩をするなら、金がかかるからね」

 オーベルは、少しだけ目を細めた。

 それから、丁寧に、頭を下げた。


         ◇


 灰色の外套の一行が、門のほうへ歩いていった。

 団員たちが、黙って、道を開けた。

 オーベルは、列の間を、ゆっくり歩いた。

 途中で、一度、足を止めた。

 ドッジの肩につかまって立っている、ガルドの前だった。

 オーベルは、布に巻かれた右の肩の先を見て、それから、閉じた左目を見た。

「これは、これは」

 オーベルの声が、少しだけ、明るくなった。

「ガルド殿ではありませんか。王国騎士団の。お懐かしい」

 ガルドは、何も言わなかった。

「騎士団を辞められて、もう二十年になりますか。辺境で傭兵をしておられるとは、聞いておりましたが」

「……」

「腕を、なくされたのですね。お気の毒に」

 オーベルは、微笑んだ。

「あのとき、魔導院のやり方に、ずいぶんと異を唱えておられた。覚えておりますよ。若い見習いの騎士たちが、みんな、あなたの話を聞いていた」

 ガルドの左手が、ドッジの肩を、強く握った。

 ドッジが、顔をしかめた。痛かったのだと思う。でも、ドッジは、何も言わなかった。

「十日後に、またお会いしましょう」

 オーベルは、軽く頭を下げた。

「今度は、騎士団の方々と一緒に。あなたの昔のお仲間も、来るかもしれませんね」

 ガルドは、最後まで、一言も口をきかなかった。

 片方だけの目が、オーベルの背中を、ずっと追っていた。

 黒石原で、魔法の馬が戻っていくのを追っていた目と、同じだった。


 オーベルは、また、歩き出した。

 俺の前で、足を止めた。

 俺を、見た。

 今度は、肩ではなかった。顔を、見ていた。

 長い指が、顎に触れた。自分の顎に。考えるときの、癖のように。

「……君は」

 オーベルは、首を、少しだけかしげた。

「どこかで、会ったかな」

お読みいただき、ありがとうございます。

毎日、朝7時と夜21時に更新します。

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