鎖の少女
砦に着いたのは、峠を下りてから、三日目の夕方だった。
門の前に、ヘルガが立っていた。
先に帰り着いた団員たちから、話は聞いていたのだと思う。第三隊が、殿に残ったこと。誰も戻ってこなかったこと。第七班の四人が、途中でいなくなったこと。
ヘルガは、ドッジの背中のガルドを見た。
布に巻かれた、右の肩の先を見た。
しばらく、何も言わなかった。
「……腕一本かい」
「腕一本だ」
ガルドが、ドッジの背中で言った。
「安いもんだね」
ヘルガは、言った。
声が、少しだけ、揺れていた。
それから、俺たち四人を、順番に見た。
「命令違反だってね」
「……はい」
「クルトが、怒ってたよ。四人とも、殿の邪魔をしに戻ったって」
「邪魔じゃないです」
ドッジが、言った。
「担ぎに戻りました」
ヘルガは、ドッジを見た。
にっこり笑った。
怖くなかった。初めて、怖くなかった。
「……よく、連れて帰った」
ヘルガは、くるりと背中を向けて、門の中に入っていった。
一度も、振り返らなかった。
◇
食堂で、マーサ婆さんが、大鍋の前に陣取っていた。
ドッジは、自分の椀を持って、大鍋の前まで行きかけて、止まった。
「……今日、飯抜きなんです」
「誰が決めた」
「隊長が。命令違反で。一日」
マーサ婆さんは、柄杓を持ったまま、ガルドのほうを見た。
ガルドは、食堂の隅の寝床に寝かされていた。ドッジが熊の後に寝ていた、あの寝床だった。
「ガルド」
「……何だ」
「怪我人を担いで峠を越えてきた子に、飯抜きなんて、あたしが許さないよ」
「一日でいいと言った」
「なら、今日の分は、昨日だったことにしな」
「……昨日は、峠の岩の下で、干し肉を四つに割って食った」
「それが、飯抜きだ」
マーサ婆さんは、ドッジの椀に、煮込みを山盛りによそった。
「ほら。昨日の分は済んだ。今日は食べな」
ドッジは、椀を両手で受け取って、泣きそうな顔をした。
ガルドは、寝床で、天井を見上げて、長いため息をついた。
俺たちの椀にも、マーサ婆さんは、黙って肉を一切れずつ多く入れた。
灰狼団は、黒石原で、二十人を失った。
二度目の会戦で、ボリスを入れて五人。三度目の会戦で、第一隊の七人と、第二隊の二人と、殿に残った第三隊の七人のうち、六人。
一人だけ、谷の入り口から這って逃げて、生き延びた団員がいた。王国軍の陣に拾われて、二日遅れで砦に戻ってきた。その団員が、あの谷の入り口で何があったかを、ヘルガに話したらしい。
第七班の四人が、煙の中に飛び込んでいくのを、見ていたという。
青い光のことは、言わなかったらしい。
見えなかったのだと思う。煙の中だったから。
◇
その夜、眠れなかった。
寝床の中で、何度も寝返りを打った。ドッジのいびきは、いつもと同じだった。セイルは、窓のほうを向いて、動かなかった。眠っているのかどうか、分からなかった。毛布の向こうで、エルナの寝息が聞こえた。
目を閉じると、あの顔が浮かんだ。
黒鴉の岩の上。風にあおられて、黒い布が外れた、あの一瞬。
俺は、寝床を抜け出した。
物見台に、上った。
百二十段を上りきって、石の囲いにもたれた。
月が、出ていた。リンデの町は、もう眠っていた。北の山並みが、黒い壁みたいに、空を切り取っていた。
あの山の向こうに、黒石原がある。
その向こうに、黒鴉がいる。
目を閉じた。
思い出そうとした。
思い出したくなかった。
でも、俺の目は、忘れない。見たものは、見なかったことにはできない。
背の低い影。黒い布。首から伸びる、鎖。
風が、布をあおった。
顔が、出た。
女の子だった。
エルナと、同じくらいの歳。いや、少し下かもしれない。痩せていた。頬が、こけていた。肌が、灰みたいに白かった。髪が、肩の上で、ざんばらに切られていた。
首に、鉄の輪がはまっていた。鎖は、そこにつながっていた。王国の男の子の、銀の輪とは違った。黒くて、太くて、錆びていた。
目が、何も見ていなかった。
王国の男の子と、同じ目だった。
でも。
右の眉の上に、小さな傷があった。
斜めに走った、白い線。
七つのときだった。
村の見張り台の梯子から、落ちた。俺が上で鳥を追っていて、下から呼ばれて振り向いたら、もう落ちていた。眉の上を、石で切った。血が、たくさん出た。
泣かなかった。
泣かないで、俺を見上げて、言った。
――リオ兄、今の、何羽だった?
鳥の話だった。自分が落ちたのに。
その傷だった。
ミラだった。
膝から、力が抜けた。
石の囲いにすがって、しゃがみ込んだ。
息が、うまくできなかった。
ミラは、死んだと思っていた。
あの夜、毛布にくるまれて、馬に乗せられていった。北へ。それきりだった。どこかで売られて、どこかで死んだのだと、思っていた。思うことにしていた。そうでないと、追いかけなければならなかったから。
追いかけても、何もできないから。
ミラは、生きていた。
黒鴉の岩の上で、首に鎖をつけられて、赤い光を撃っていた。
灰狼団の陣に。
ボリスを殺した、あの戦場で。
頭の中で、いくつもの言葉が、ばらばらに鳴った。
――真夏なのに、長袖だった。ミラは、いつもそうだった。
――一か月前の、灰色の人。覚えてる?
――村の子どもを全員並ばせて、一人ずつ、肩と腕を見ていった。
――出ないほうがいいよ。魔法使いなんて。
――連れていかれたら、帰ってこられないんだよ。
ミラは、知っていたのだ。
自分の腕に、何があるのか。
エルナと、同じだった。誰にも見せずに、ずっと隠していた。
――収穫前の村を焼いても、取るものがない。
ガルドの声がした。
――なのに、焼いた。そして、子どもを一人だけ、連れていった。
――……一人だけか。
灰の中で、ガルドが、そう訊いた。俺は、一人だけだと答えた。
一人だけで、よかったのだ。
最初から、一人だけが、目当てだったのだ。
北の山並みを、見た。
月の光の中で、山は、何も言わなかった。
俺は、石の囲いを、両手で握りしめた。
セラ村が焼かれたのは。
父さんと、母さんと、ハンス兄と、ヨアン兄が死んだのは。
麦のためじゃなかった。
蓄えのためでもなかった。
村が焼かれたのは、ミラを連れていくためだった。
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