片腕
峠に着いたのは、日が沈んでからだった。
灰狼団の姿は、もうなかった。先に峠を越えて、砦へ向かったのだろう。道に、血の跡と、捨てられた槍が、点々と残っていた。
峠の少し下に、岩が庇のように張り出した場所があった。羊飼いが雨宿りに使うのか、地面に古い焚き火の跡があった。
そこに、ガルドを下ろした。
ドッジは、ガルドを下ろしたとたん、その場に座り込んだ。肩で息をしていた。
「……重かった」
「よく担いだ」
「隊長、三回くらい、俺の背中で文句言ってた」
「何て」
「揺らすな、って」
ガルドは、目を閉じていた。息は、していた。浅くて、速い息だった。
エルナが、火を起こした。
小さな火だった。煙が、峠の向こうに見えないように、岩の陰で。
火が燃え上がると、エルナは、ガルドの右腕の、袖を切り裂いた。
俺は、目をそらしかけて、そらさなかった。
腕は、肘の少し上から下が、ひどいことになっていた。骨が、何か所も折れているのが、外から見ても分かった。皮膚が、紫と黒に変わっていた。指先が、冷たかった。
エルナは、長い間、腕を見ていた。
指で、ところどころを押した。ガルドが、うめいた。
それから、肘の上を、紐できつく縛った。
「……どうだ」
俺が訊いた。
エルナは、答えなかった。
火に、薬草を何枚か、くべた。苦い匂いの煙が、岩の庇の下に、たまった。
「朝まで、待つ」
エルナは言った。
「朝になって、黒いのが、肘より上に来たら」
「来たら」
「切る」
◇
夜中、誰も、眠らなかった。
ガルドの息を、四人で聞いていた。
ドッジが、懐から、干し肉の残りの半分を出した。じっと見て、四つに割った。一つずつ、俺たちに配った。
「勝ってないぞ」
セイルが言った。
「隊長を連れて帰った。半分は、勝った」
「さっきも、半分勝ったと言っていた」
「半分と半分で、一個だ」
セイルは、干し肉を受け取った。
四人で、黙ってかじった。小さかった。すぐになくなった。
ドッジが、エルナを見た。
エルナは、火を見ていた。
「なあ、エルナ」
エルナの肩が、こわばった。
セイルも、エルナを見た。
昼間の、青い光のことだ。誰も、まだ、口にしていなかった。
ドッジは、しばらく、言葉を探していた。
「……腹、減ったな」
エルナが、ドッジを見た。
「干し肉、四つに割ったら、ほとんどなかった。今度から、もっと持ってくる」
「……」
「あと、昼間、煙がすごかったよな。俺、何も見えなかった」
ドッジは、火に、枝を一本くべた。
「なんにも、見えなかった」
セイルが、干し肉の最後のひとかけらを、飲み込んだ。
「俺も、見ていない」
セイルは、火を見たまま言った。
「剣を振っていた。前しか見ていなかった。後ろで何があったかは、知らない」
エルナは、二人を、順番に見た。
それから、俺を見た。
俺は、うなずいた。
エルナは、膝を抱えた。膝の上に、額をつけた。
「……ありがと」
小さな声だった。
三人とも、聞こえなかったふりをした。
◇
夜明けに、エルナが、ガルドの腕を見た。
黒い色が、肘を越えていた。
縛った紐の、すぐ下まで来ていた。
エルナは、腕から目を離さずに、言った。
「切る」
ガルドが、目を開けた。
いつから起きていたのか、分からなかった。片方だけの目で、自分の腕を見下ろした。黒く変わった腕を。
「……そうか」
ガルドは、それだけ言った。
「このままだと、腐る。腐ったら、毒が体に回る。そうなったら、もう助からない」
エルナは、ガルドを見た。
「肘の上で、切る。今なら、間に合う」
ガルドは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「誰が切る」
四人とも、黙った。
エルナが、セイルを見た。
「一太刀で。骨ごと。迷ったら、だめ。二回斬ると、骨が割れる」
セイルの顔から、血の気が引いた。
「……俺が」
「一番、剣がまっすぐ」
セイルは、ガルドを見た。
ガルドは、セイルを見返した。
「熊の喉を、一太刀でやったんだろう」
「……熊と隊長は、違います」
「同じだ。骨と肉だ」
ガルドは、口の端を上げた。昨日、谷の入り口で見たのと、同じ顔だった。
「外すなよ」
ドッジが、ガルドの体を、後ろから抱えた。両腕で、肩と胸を押さえた。
「動いたら、ごめんなさい」
「何でお前が謝る」
「隊長が動いても、俺は放しません。だから、先に謝っときます」
俺は、ガルドの右腕を、岩の上に伸ばして、押さえた。肘の上の、縛った紐のすぐ上。そこに、エルナが、炭で線を引いた。
エルナは、小刀を、火の中に入れていた。刃が、赤く焼けていた。
ガルドが、革の紐を、口にくわえた。
セイルが、剣を抜いた。
剣先が、震えていた。
初めて見た。セイルの剣先が、震えるのを。百回も二百回も、夜明けの中庭で、ぴたりと止まっていた剣先が。
セイルは、目を閉じた。
息を吸った。
吐いた。
目を開けた。
剣先が、止まっていた。
一太刀だった。
ガルドの体が、跳ねた。ドッジが、全身で押さえ込んだ。革の紐を噛んだ口から、声にならない声が漏れた。
エルナが、焼けた小刀を、傷口に押し当てた。
肉の焼ける音がした。
ガルドの体が、もう一度、跳ねた。
それから、力が抜けた。
「……隊長」
「気を失っただけ」
エルナが、ガルドの首に指を当てた。
「脈は、ある。強い」
エルナは、薬草を傷口に巻きつけて、布で縛った。手が、少しも震えていなかった。
終わってから、エルナは、自分の両手を見下ろした。
そこで初めて、手が震え始めた。
セイルは、剣を下げたまま、立っていた。
岩の上に、ガルドの右腕が残っていた。
セイルは、それを見なかった。
剣を拭いた。一度だけ。それから、鞘に収めた。
「……斬るのは、得意だ」
セイルは、誰にともなく、言った。
声が、震えていた。
◇
昼前に、ガルドが目を覚ました。
右の肩の先を見下ろした。肘の上で、布に巻かれて、終わっていた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、四人の顔を、順番に見た。
「お前ら」
「……はい」
「命令違反だ」
ガルドの声は、かすれていた。でも、いつもの声だった。
「飯抜き」
ドッジが、真っ青になった。
「……何日ですか」
「一日でいい」
ドッジが、ほっと息を吐いた。
「片腕じゃ、三日分も数えられん」
ガルドは、また目を閉じた。
口の端が、少しだけ、上がっていた。
その日の午後、俺たちは、峠を下り始めた。
ガルドは、ドッジとセイルが交代で担いだ。エルナが、前を歩いた。
俺は、最後尾を歩きながら、何度も、北を振り返った。
峠の向こうに、黒石原は、もう見えなかった。
でも、俺の目の奥には、まだ、残っていた。
岩壁の切れ目を抜けて、草の斜面を駆け上がりながら、振り返ったとき。
黒鴉の岩の上の、黒い天幕の前に、あの背の低い影が立っていた。頭からかぶった、黒い布。首から伸びる、鎖。
谷から吹き上げた風が、黒い布をあおって、頭から外した。
顔が、見えた。
あのときは、見ただけだった。考える暇はなかった。
俺の目は、それを、遠くから、はっきりと捉えていた。
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