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一度だけ

 煙は、熱かった。

 焦げた草と、焦げた革と、焦げた何かの匂いがした。目に染みて、涙が出た。前を走るセイルの背中が、灰色の中で、ぼやけた。

 黒い鎧が、煙の縁に、ずらりと並んでいた。

 谷の入り口を、外から囲んでいる輪だった。俺たちは、その輪の、さらに外側から来た。黒鴉の兵たちは、みんな、内側を向いていた。

 セイルは、一番近い兵の背中に、斬りつけた。

 声も上げさせなかった。

 二人目が、振り向いた。振り向いたときには、もう斬られていた。

 輪に、穴が開いた。

 セイルが、その穴に飛び込んだ。俺が続いた。ドッジが続いた。エルナが続いた。

 煙の内側に、入った。


 何も見えなかった。

 灰色だった。上も下も、灰色だった。ときどき、どこかで剣が鳴った。誰かが叫んだ。その方向も、分からなかった。

 セイルが、足を止めた。振り返って、俺を見た。

 どこだ、と目が言っていた。

 俺は、目を凝らした。

 煙は、全部が同じ濃さではなかった。

 地面に近いところが、少しだけ薄かった。熱い煙は、上に昇る。だから、下のほうは、ほんの少しだけ、透けて見えた。

 俺は、しゃがんだ。

 地面すれすれから、煙の中を見た。

 石ころ。倒れた槍。誰かの足。動かない足。灰色の布を巻いた槍の柄。

 その向こうに、大きな黒い塊があった。

 馬だった。倒れた馬。

 馬の陰に、人が座っていた。

 岩に背中をつけて。左手に、剣を持っていた。

 右腕が、岩の下だった。


 俺は、指さした。

 セイルが、うなずいた。

 四人で、煙の中を、低く走った。倒れた団員の体を、何度もまたいだ。第三隊の団員だった。顔を見る暇は、なかった。見たら、止まってしまう気がした。

 馬の陰に、たどり着いた。

 ガルドだった。

 片方だけの目を、開けていた。俺たちを見て、その目が、大きく見開かれた。

「……何で、来た」

 かすれた声だった。

「命令違反です」

 俺は言った。

「掟です。置いていかない」

 ガルドは、何か言おうとした。言葉にならなかった。

 右腕に、岩が乗っていた。赤い光が落ちたときに、吹き飛ばされてきたのだろう。抱えるほどの大きさだった。その下で、腕が、潰れていた。

 ドッジが、岩に手をかけた。

 両腕で、持ち上げた。

 顔が、真っ赤になった。首の筋が、浮き上がった。岩が、少しだけ浮いた。

「今だ、リオ」

 俺は、ガルドの体を、岩の下から引きずり出した。ガルドが、獣みたいな声を上げた。

 ドッジが、岩を放した。地面が揺れた。

 ドッジは、そのまま、ガルドの体を、肩に担ぎ上げた。

「……重い」

「言ったろ」

「言ってた。でも、思ってたより重い」


 煙が、薄くなり始めていた。

 風が、変わったのだ。谷の奥から、平原に向かって。煙が、ゆっくりと流されていった。

 見えるようになった。

 俺たちも、見えるようになった。

 黒い鎧が、まわりを囲んでいた。

 十人。十五人。もっと。さっき斬って開けた輪の穴は、もう、閉じていた。

 黒鴉の兵の一人が、俺たちを見て、笑った。布の下で口が笑ったのが分かった、あの谷の野盗と同じ笑い方だった。

「拾いものだ」

 兵が言った。

「灰狼団の、銀札の隊長。首を持って帰れば、団長から褒美が出る」


 セイルが、前に出た。

 一人目を、斬った。二人目を、斬った。三人目の槍を、払った。

 でも、四人目と五人目が、同時に来た。

 セイルは、下がった。下がるしかなかった。後ろには、ガルドを担いだドッジがいた。

 エルナの矢が、五人目の喉に刺さった。

 六人目の目に、刺さった。

 七人目の肩に。

 矢が、尽きかけていた。エルナの矢筒が、ほとんど空になっていた。

 俺は、剣の柄を握っていた。

 抜けなかった。

 また、抜けなかった。

 足元の石を拾って、投げた。黒鴉の兵の兜に当たって、跳ね返った。兵は、ちらりと俺を見ただけだった。

 輪が、縮まっていった。

 谷の道に戻る方向は、黒い鎧で、びっしり埋まっていた。反対側は、谷の岩壁だった。切り立っていて、登れなかった。

 逃げ場が、なかった。


 エルナが、弓を、地面に置いた。

 俺は、エルナを見た。

 エルナは、俺を見なかった。

 しゃがんで、右の手のひらを、地面に当てた。

 左の肩が、光り始めた。

 服の上からでも、分かった。青い光が、布を透かして、にじみ出てきた。崖道で見たときの、かすかな光とは違った。昼の光の中で、はっきりと、青く。

 エルナは、息を止めていた。

 痛いとき、息を止めない。止めると、光るから。

 母さんに教わったことを、エルナは、わざと破っていた。


 地面が、鳴った。

 低い音だった。足の裏から、腹の底まで響いてきた。

 エルナの手のひらから、青い光の筋が、地面を走った。

 まっすぐ、黒鴉の兵たちの列と、俺たちの間を、横切って。

 地面が、裂けた。

 石ころが、跳ね上がった。裂け目は、どんどん広がっていった。一歩。二歩。三歩の幅になった。黒鴉の兵たちが、悲鳴を上げて、後ずさった。何人かが、裂け目に落ちた。

 青い光は、そこで止まらなかった。

 裂け目の端から、光が、谷の岩壁を這い上がった。

 岩壁が、割れた。

 縦に、ひびが入って、それが大きく開いて、人が一人通れるくらいの、細い切れ目ができた。その向こうに、斜面が見えた。峠のほうへ続く、草の斜面。

 道だった。

 エルナの手が、地面から離れた。

 光が、消えた。

 エルナは、その場に、膝をついた。

 息を、吐いた。


 誰も、口をきかなかった。

 セイルが、剣を下げたまま、エルナを見ていた。

 ドッジが、ガルドを担いだまま、口を開けていた。

「……今の」

 ドッジが、言った。

「今の、何だ」

「走って」

 エルナが、立ち上がった。ふらついた。俺が、腕を支えた。

「走って。今」

 セイルが、最初に動いた。岩壁の切れ目に向かって、走った。ドッジが、ガルドを担いで、続いた。俺は、エルナの腕を引いて、走った。

 裂け目の向こうで、黒鴉の兵たちが、叫んでいた。誰も、裂け目を越えてこられなかった。

 岩壁の切れ目を、抜けた。

 草の斜面に、出た。


 斜面を駆け上がりながら、一度だけ、振り返った。

 下に、黒石原が広がっていた。煙の流れていく平原。黒鴉の黒い列。岩の上の、黒い天幕。

 それから、王国軍の陣の、ずっと後ろ。

 小さな丘の上に、馬が一頭、止まっていた。

 灰色の外套の男と、もう一人。

 ぐったりと、男の腕に支えられている、痩せた男の子。

 首に、銀の輪。

 男の子は、顔を上げていた。

 こっちを見ていた。

 何も映していなかったはずの、あの目が。

 青い光の消えた、岩壁の切れ目を。

お読みいただき、ありがとうございます。

毎日、朝7時と夜21時に更新します。

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