置いていかない
岩の上から、谷の入り口が見えた。
煙が、まだ、晴れていなかった。灰色の煙の中で、ときどき、何かが光った。剣だった。まだ、誰かが戦っていた。
黒い鎧が、煙のまわりを、ぐるりと囲んでいた。
囲みの輪が、少しずつ、縮まっていた。
「……リオ」
ドッジが、俺の横で、膝に手をついていた。息が上がっていた。
「止まるな。上で、みんなが待ってる」
「見える」
「何が」
「まだ、戦ってる。煙の中で」
ドッジが、顔を上げた。谷の入り口を見た。目を細めた。
「……見えない」
「俺には、見える」
煙の切れ目から、一瞬だけ、槍が見えた。灰狼団の槍だった。柄に、灰色の布が巻いてある。
三本。
さっきは、八本あった。
エルナとセイルも、追いついてきた。
セイルは、岩の上の俺を見上げて、それから、谷の入り口を見た。
何も言わなかった。でも、顔色が変わった。
「隊長は、まだ生きてる」
俺は言った。
「たぶん。槍が、三本残ってる。囲まれてる。あのままだと」
「分かっている」
セイルが、さえぎった。
「分かっている。だから、何だ」
「戻る」
言ってから、自分の声に驚いた。
セイルが、俺を見た。
「命令は、帰れ、だ」
「掟は、置いていかない、だろ」
灰狼団に入った最初の週に、ボリスに教わった。班の誰かが倒れたら、班で運ぶ。置いていかない。飯は班で食う。
ボリスは、もういない。
「隊長は、第七班の教官だ。班の一人だ」
「隊長は、自分で残った」
「知ってる」
「残ると決めた者を、迎えに行くのは、侮辱だ」
「侮辱でもいい」
俺は、岩から降りた。
「死なせるよりいい」
セイルは、しばらく黙っていた。
それから、剣の柄を、握り直した。
「……なら、俺一人で行く」
「は?」
「お前たちは、足手まといだ」
セイルの声は、低かった。
「剣を抜けないお前と、盾しか持てないドッジと、弓しか引けないエルナで、黒鴉の二百に突っ込むのか。死体が四つ増えるだけだ。俺一人なら、囲みの薄いところを斬り抜けて、隊長を連れ出せる」
「お前一人だと、帰ってこない」
セイルの目が、鋭くなった。
「……何だと」
「お前の兄さんと、同じになる」
言ってはいけないことだった。分かっていた。
セイルの手が、剣から離れた。俺の胸ぐらを、つかんだ。
殴られる、と思った。
殴られなかった。
セイルは、俺の胸ぐらをつかんだまま、動かなかった。目が、赤かった。ロク村の夜明けと、同じ目だった。
「一人で行ったら、隊長を見つけられない」
俺は言った。
「あの煙の中で、どこに隊長がいるか、お前には見えない。俺には見える」
「……」
「隊長を見つけても、一人じゃ担げない。隊長は、重い。たぶん怪我してる。担いだら、剣が振れない。剣が振れなかったら、囲みは抜けられない」
セイルの手が、少しだけ、ゆるんだ。
「三人いれば、一人が見て、一人が止めて、一人が斬れる」
ロク村で、ガルドが言ったことだった。
「四人いれば、もう一人が、倒れたやつを運べる」
俺は、セイルの手首を、つかんだ。
「四人で行く」
ドッジが、大きく息を吐いた。
「腹は、減ってる」
ドッジは、懐から、朝エルナにもらった干し肉を取り出した。半分に、かじり取った。もぐもぐと噛んで、飲み込んだ。
残りの半分を、また、懐にしまった。
「減ってるけど、行く」
「……勝ったら食うんじゃなかったのか」
「半分だけ、先に勝った」
ドッジは、焦げた盾を、左腕に通し直した。革紐を、ぎゅっと締めた。
「隊長を担ぐのは、俺だろ。一番、力がある」
「……ああ」
「なら、帰り道は、隊長の分も食わないとな。重いから」
ドッジは、笑った。
膝が、まだ、震えていた。
エルナは、何も言わなかった。
岩の陰にしゃがんで、弓を膝に乗せていた。弦を、外していた。
腰の袋から、新しい弦を出した。歯で端をくわえて、弓の端に引っかけた。弓を膝で曲げて、もう一方の端に、弦をかけた。
指で、弾いた。
びん、と、高い音が鳴った。
エルナは、矢筒を確かめた。残りの矢を、一本ずつ、指で数えた。
十四本。
それから、立ち上がった。
左の肩を、一度だけ、右手で押さえた。
俺だけが、それを見た。
セイルが、俺の胸ぐらから、手を放した。
谷の入り口を見下ろした。煙の中で、また、剣が光った。
槍が、二本になっていた。
「……俺が、先頭だ」
セイルは言った。
「黒鴉の囲みを、斬って開ける。リオは、俺のすぐ後ろ。どこに隊長がいるか、指さしで言え。声は出すな。黒鴉に聞こえる」
「分かった」
「ドッジは、リオの後ろ。隊長を見つけたら、担げ。担いだら、何があっても、止まるな」
「おう」
「エルナは、最後尾。後ろから来るやつを、射て」
エルナが、うなずいた。
セイルは、俺を見た。
「お前の作戦じゃない。俺の作戦だ」
「……ああ」
「文句は、帰ってから聞く」
セイルは、剣を抜いた。
四人で、谷の道を、駆け下りた。
逃げてきた道を。
煙の中へ。
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