黒鴉
黒い旗のことを、ガルドに言った。
夜明け前だった。ガルドは、焚き火のそばで、剣の手入れをしていた。俺の話を聞くと、手を止めて、ガルムの陣の東の端を、長い間見ていた。
まだ暗くて、ガルドの目には、旗は見えなかったと思う。
「左の翼が、欠けてたか」
「欠けてました」
「……そうか」
ガルドは、剣を鞘に収めた。
「ガルムの諸侯が、黒鴉を雇ったんだろう。二回続けて負けたからな。金を積んだんだ」
「黒鴉は、強いんですか」
「強い。金になる戦は、全部勝ちに行く。勝てない戦には、最初から来ない」
ガルドは、立ち上がった。
「来たってことは、勝てると思ってるってことだ」
朝、ドッジは、干し肉を食べなかった。
「……腹、減ってないのか」
「減ってる」
「なら」
「減ってるけど、入らない」
ドッジが、飯を前にして手をつけないのを、初めて見た。
エルナが、黙って、ドッジの手に干し肉を握らせた。ドッジは、それを、懐にしまった。
「あとで食う。勝ったら食う」
セイルは、ずっと、ガルムの陣の東の端を見ていた。
◇
三度目の会戦は、昼前に始まった。
ガルムの軍勢は、前の二回と同じように、平原の北に並んだ。でも、並び方が違った。真ん中が薄くて、東の端だけが、異様に厚かった。
東の端に、黒い旗が立っていた。
旗の下の列は、ほかの列と、まるで違っていた。鎧の色が、全部、黒く塗りつぶされていた。槍の長さが、揃っていた。列の幅も、揃っていた。ばらばらの寄り合いの中に、そこだけ、刃物みたいに、まっすぐな列があった。
「……あれが、黒鴉か」
ドッジが、つぶやいた。
「二百は、いる」
セイルが言った。
「王国軍の、正面じゃない。こっちに向いてる」
黒鴉の列は、灰狼団の陣の、真正面にいた。
王国軍の右の端。横を守る、傭兵の陣。
一番、死ぬ場所。
角笛が鳴った。
王国軍の陣から、また、あの馬が出ていった。灰色の外套の監督官と、銀の輪の男の子。
男の子は、馬を降りると、右腕を突き出した。
刻印が、光った。
白い線が、ガルムの真ん中の列に、走った。
熱い風。穴。煙。
ガルムの真ん中が、崩れた。
王国軍の騎士たちが、歓声を上げて、前に出た。崩れた真ん中に向かって、なだれ込んでいった。
灰狼団の陣の前だけが、動かなかった。
黒鴉の列も、動かなかった。
俺は、黒鴉の列の、真ん中を見ていた。
列の中ほどに、少しだけ高い場所があった。小さな岩の上に、黒い天幕が一つ、張られていた。
天幕の前に、人がいた。
黒い鎧の男たちが、何人か。その真ん中に、背の低い影が一つ。頭から、黒い布をすっぽりかぶっていた。
その影の横に立った男が、何かを持っていた。
鎖だった。
鎖の端が、背の低い影の、首のあたりまで、伸びていた。
影が、右手を上げた。
黒い布の袖が、滑り落ちた。
腕が見えた。
細い腕だった。
そこに、模様があった。
「――隊長」
声が、喉に引っかかった。
「黒鴉の、真ん中。岩の上。あれ」
ガルドが、俺の指さす先を見た。
その瞬間、影の腕が、光った。
赤かった。
王国の男の子の光は、白い線だった。これは、違った。赤い光が、影の頭の上に、丸く膨らんでいった。人の頭くらいの大きさ。樽くらい。荷車くらい。
どんどん、大きくなった。
ゆっくりだった。白い線みたいに、一瞬では出てこなかった。でも、大きかった。
「魔法だ」
誰かが言った。
灰狼団の陣じゅうが、凍りついた。
「傭兵団に、魔法だと」
「ありえねえ」
「黒鴉に、刻印持ちが――」
平原の真ん中で、王国の男の子が、こっちを振り向いた。
監督官が、何か叫んで、男の子の腕を、黒鴉のほうへ向けさせた。
白い線が、走った。
黒鴉の、赤い光に向かって。
白と赤が、平原の上で、ぶつかった。
音がした。
今度は、音がした。耳の奥が、割れるような音だった。平原じゅうの馬が、一斉に棒立ちになった。
白い線が、赤い光に、食い込んだ。
赤い光が、揺れた。
揺れて、それから、白い線を、押し返した。
白い線が、細くなっていった。糸みたいに細くなって、ぷつりと切れた。
平原の真ん中で、男の子が、崩れ落ちた。
顔じゅうが、赤かった。鼻からも、口からも、血を流していた。監督官が、男の子を抱えて、馬に放り上げた。馬が、陣のほうへ駆け戻っていった。
王国の魔法使いが、撃ち負けた。
「……三十」
俺は、気づくと、数えていた。
「何を数えてる」
セイルが訊いた。
「あの赤いのが、膨らみ始めてから、撃つまで。三十数えた」
物見台で、鳥の群れが降りてくる間合いを数えていたのと、同じ癖だった。
セイルが、俺を見た。
何か言おうとした。
そのとき、黒鴉の岩の上で、赤い光が、また膨らみ始めた。
さっきより、ずっと大きく。
今度は、王国の白い線は、来なかった。
赤い光が、ゆっくりと、向きを変えた。
平原の真ん中ではなかった。
王国軍の、騎士たちの列でもなかった。
まっすぐ。
石ころだらけの斜面の、灰狼団の陣に。
俺たちのほうに。
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