魔法
夜明けに、平原の向こうに、ガルムの軍勢が並んだ。
黒石原の北の端に、横に長い列が、何本も、何本も重なっていた。槍の穂先が、朝日を受けて、きらきら光っていた。旗が、風に揺れていた。色も形も、ばらばらだった。ガルムは、諸侯の寄り合いだから、旗も寄り合いなのだとボリスが言った。
「数は、向こうのほうが多い」
ボリスは、干し肉をかじりながら言った。
「いつもだ。でも、王国が勝つ。いつもだ」
「なんでですか」
「見てりゃ分かる」
ボリスは、干し肉を半分にちぎって、俺に寄こした。
最初に会った朝と、同じ干し肉だった。
灰狼団は、王国軍の右の端に並んだ。
五十人で、三つの隊に分かれた。俺たち第七班は、ガルドの第三隊の、一番後ろだった。
「お前らは、見てろ」
ガルドが言った。
「今日は、見るだけでいい。戦場の形を、目に入れろ」
ドッジは、盾を構えて、俺とエルナの前に立った。セイルは、ガルドの横で、王国軍の騎士たちの並びを、じっと見ていた。
「……前が、厚すぎる」
セイルが、小さく言った。
「横が、薄い。騎馬に回られたら、崩れる」
「だから、俺たちが横にいる」
ガルドが言った。
「騎士様は、前で目立つ。俺たちは、横で死なないように踏ん張る。昔から、そういう分け方だ」
「……兄も、前にいました」
「知ってる」
ガルドは、それ以上、何も言わなかった。
ボリスが、俺の横に来て、平原を眺めた。
「坊主、娘はいるか」
「……いません。十七です」
「そうか。俺は、三人いる。リンデの町に」
ボリスは、指を三本立てた。
「全員、俺に似て、よく食う。給金が、全部、娘の胃に入る」
「ドッジみたいですね」
「ドッジのほうが、まだましだ。ドッジは、一人だからな」
後ろで、ドッジが、心外そうな顔をした。
◇
角笛が鳴った。
王国軍の陣の真ん中から、馬が一頭、ゆっくりと前に出てきた。
馬の上に、二人乗っていた。
前に、灰色の外套を着た男。
後ろに、昨日の夜の、男の子。
灰色の外套を見た瞬間、俺の体が、勝手にこわばった。
目を凝らした。男の顔を見た。
違った。セラ村に来た男ではなかった。もっと年をとっていて、もっと太っていた。顎に、白い髭を生やしていた。
それでも、指先が、冷たくなっていた。
「魔導院の、監督官だ」
ガルドが、俺の横で、言った。
「魔法使いには、必ず一人つく。何を、いつ、どこに撃つか。全部、あいつが決める」
馬は、王国軍の最前列の、さらに前まで出て、止まった。
平原の真ん中だった。ガルムの列まで、三百歩くらい。
ガルムの軍勢が、ざわめいた。いくつかの列が、後ろに下がろうとして、後ろの列とぶつかった。
灰色の外套の男が、馬を降りた。
男の子も、降りた。
男が、男の子の耳元で、何かを言った。
男の子は、うなずいた。
それから、右手を、前に突き出した。
袖が、肘までまくれていた。
腕に、模様があった。
ここからでも、俺の目には、見えた。
手首から肘まで、細い線が、何本も枝分かれして、走っていた。
エルナの肩と、同じだった。
形は違った。でも、同じものだった。
模様が、光った。
最初は、青く。それから、白く。
どんどん、明るくなった。朝日より明るかった。見ていられなくなって、俺は、目を細めた。
男の子の手のひらから、光が、まっすぐに伸びた。
一本の、白い線だった。
音は、なかった。
線は、平原を横切って、ガルムの最前列に、届いた。
届いた場所が、白くなった。
一瞬だけ。
次の瞬間、熱い風が、平原を吹き抜けてきた。三百歩離れた、俺たちの顔まで、熱かった。草が、一斉になびいた。誰かの悲鳴が、遅れて聞こえてきた。
光が、消えた。
ガルムの最前列の、真ん中に、穴が開いていた。
五十歩くらいの幅だった。そこに、さっきまで、人が並んでいた。槍を持って、旗を持って、十人か、二十人か、それ以上か。
何もなかった。
黒く焦げた地面から、煙が、ゆらゆらと上っていた。
それだけだった。
俺は、息をするのを、忘れていた。
剣で斬られた人は、倒れる。矢で射られた人は、倒れる。谷の待ち伏せで、俺は、それを見た。ヤンが、倒れるのを見た。
あそこには、倒れている人も、いなかった。
いなくなっていた。
「……これが」
声が、かすれた。
「これが、魔法、ですか」
「ああ」
ガルドは、平原を見たまま、言った。
「傭兵十人を、一発で消す。だから、王国は、負けない。数が多くても、並んでいる列ごと、消せるからな」
ボリスが、干し肉をかじる手を、止めていた。
「何回見ても、慣れねえ」
ボリスは、つぶやいた。
「慣れたら、たぶん、人間じゃなくなる」
ガルムの軍勢が、崩れ始めた。
穴の両側の列が、後ろに下がった。下がった列が、その後ろの列を押した。角笛が鳴った。ガルムの側の角笛だった。
列が、まるごと、北へ引いていった。
王国軍の陣から、歓声が上がった。騎士たちが、剣を空に突き上げた。
平原の真ん中で、男の子が、膝をついた。
鼻から、血が流れていた。
灰色の外套の男が、男の子の腕をつかんで、引っぱり上げた。乱暴だった。荷物を持ち上げるみたいだった。男の子を、馬の後ろに押し上げて、自分も乗った。
馬が、陣に戻ってきた。
灰狼団の陣の、すぐ前を通った。
男の子の顔が、見えた。
鼻の下に、乾きかけた血の筋があった。顔は、真っ白だった。
目が、何も見ていなかった。
空でもなく、地面でもなく、どこも見ていなかった。開いているのに、何も映していない目だった。
首の銀の輪が、日の光を、ちかりと跳ね返した。
◇
後ろで、小さな音がした。
振り返ると、エルナが、ドッジの盾の陰で、しゃがみ込んでいた。
両腕で、自分の体を抱いていた。
震えていた。
「……エルナ?」
ドッジが、盾を下ろして、のぞき込んだ。
「寒いのか」
「……寒い」
エルナは、顔を上げなかった。
「朝だから。寒い」
「そうか」
ドッジは、自分の外套を脱いで、エルナの肩にかけた。大きすぎて、エルナがすっぽり埋まった。
「腹、減ってるからだぞ。腹が減ると、寒くなる。干し肉、食うか」
「……要らない」
「食えって」
ドッジは、ボリスからもらった干し肉の残りを、エルナの手に押しつけた。
エルナは、それを、握りしめていた。食べなかった。
セイルは、平原の、黒く焦げた穴を見ていた。何も言わなかった。
ガルドは、陣に戻っていく馬の背中を、片方だけの目で、ずっと追っていた。
エルナが震えている理由を知っているのは、俺だけだった。
◇
その夜も、俺は、見張りの岩の上にいた。
王国軍の陣の真ん中に、小さな天幕が、また張られていた。焚き火のそばに、あの男の子が座っていた。
昨日の夜と、同じ格好だった。膝を抱えて、火を見ていた。まわりに、槍を持った兵士が四人。
今日、平原で、何十人を消したのか。
それとも、何も考えていないのか。
岩の下で、足音がした。
エルナが、登ってきた。ドッジの外套を、まだ肩にかけたままだった。裾を、引きずっていた。
俺の隣に、座った。
二人とも、黙って、あの焚き火を見ていた。
「……エルナ」
「……」
「あの子の、首の。あれは、何だ」
エルナは、しばらく、答えなかった。
ドッジの外套の前を、両手で握りしめた。
「ばあちゃんが、言ってた」
エルナは、言った。
「魔導院に連れていかれた子は、最初に、首に輪をはめられる。銀の輪。魔導院の人にしか、外せない。外そうとすると、首が焼ける」
焚き火の向こうで、男の子が、膝の間に顔をうずめた。
銀の輪が、火の色に光った。
「どこへ行っても、外れない。どこへ逃げても、魔導院の人には、分かる」
エルナの声が、震えていた。
母さんの字が、だんだん、きれいになっていった。誰かに、書かされてるみたいに。
エルナは、あの輪を見つめたまま、言った。
「……封じの輪。逃げられないように」
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