兄
セイルを、食堂まで運んだ。
井戸のそばに置いておくわけにはいかなかった。夜は冷える。それに、あのまま寝たら、朝には第二隊の酒飲みたちに、顔に落書きされている。
俺が右の脇を、エルナが左の脇を支えた。セイルは、思ったより重かった。足が、ほとんど言うことをきいていなかった。
「……放せ」
「放したら、倒れるぞ」
「倒れない。俺は、ヴェルナー家の、次男だ」
「家の名前は、捨てたんじゃなかったのか」
「……捨てた」
セイルは、しばらく考えてから、言った。
「捨てたから、拾いに行く」
「どこに」
「……どこだろう」
エルナが、横で、小さく首を振った。
食堂は、もう、ほとんど人がいなかった。
隅の寝床で、ドッジが、半分起き上がっていた。
「なんだ、どうした」
「酔ってる」
「セイルが?」
ドッジの目が、まん丸になった。
セイルを、ドッジの寝床の横の長椅子に、座らせた。セイルは、座ったとたん、背筋を伸ばそうとした。伸ばしきる前に、ぐらりと傾いて、机に額をぶつけた。
ごん、と、いい音がした。
「……痛い」
「痛いけど、痛くないか」
ドッジが訊いた。
「痛い。普通に」
セイルは、額を押さえたまま、ドッジを見た。
「壁」
「……俺のことか」
「お前は、壁だ。熊が、壁にぶつかって、滑った。見事だった」
「お、おう。ありがとう」
「褒めてない。事実を言った」
「どっちなんだ」
台所から、マーサ婆さんが顔を出した。セイルを見て、舌打ちをした。それから、黙って、水を一杯と、固いパンを一切れ、机に置いていった。
「酒は、空きっ腹で飲むもんじゃないよ」
セイルは、パンを見下ろした。
それから、懐を探った。布の包みを、取り出した。
銀の匙だった。
パンに、匙は要らない。でも、セイルは、匙を机の上に置いて、それをじっと見ていた。
◇
「今日は、兄の命日だ」
セイルが言った。
誰も、何も言わなかった。
「三年前の、今日だ」
セイルは、匙の柄を、指でなぞった。細かい模様が、彫ってあった。よく見ると、模様の真ん中に、鳥の翼のようなものと、剣が一本、組み合わされていた。
「家の紋だ。兄の匙だった」
「……兄さんは、何を」
俺が訊いた。
「騎士だった」
セイルは言った。
「王国騎士団の、小隊長。二十人の部下がいた。二十二歳で、小隊長になった。誰よりも早く。誰よりも強かった。剣を教えてくれたのは、兄だった」
セイルの声は、ろれつが回っていなかった。それなのに、そこだけは、はっきりしていた。
「兄は、いつも言っていた。強くなれ。強ければ、死なない」
ロク村へ発つ前の、夜の中庭を思い出した。
強くなければ、死ぬ。俺は、そう教わった。
「三年前の今日、国境で、小競り合いがあった」
セイルは、匙を握った。
「ガルムの諸侯の、小さな部隊だった。兄の小隊が、見張りについていた。そこに、敵の指揮官が、少ない護衛で、のこのこ出てきた」
「……」
「兄は、それを見て、一人で、馬を出した」
食堂のランプが、じじっと鳴った。
「命令は、待て、だった。上の隊が来るまで、待てと。兄は、待たなかった。今なら討てる、と思ったんだ。兄の剣なら、討てた。本当に、討てたんだ」
セイルは、机の上の一点を見ていた。
「兄が、一人で出たから、部下も、出た。兄を一人にできなかったから。二十人、全員が、兄の後を追った」
「……それで」
「敵の指揮官は、囮だった」
セイルは、言った。
「丘の向こうに、三百人、隠れていた」
しばらく、誰も、口をきかなかった。
「兄は、敵の指揮官を、斬った」
セイルは、言った。
「斬って、それで、囲まれた。二十人の部下と一緒に。誰も、帰ってこなかった。兄の首は、三日後に、国境の杭の上で見つかった」
ドッジが、息をのむ音がした。
「王都は、兄を罰した」
セイルの声が、少しだけ、低くなった。
「命令に背いて、隊を失ったから。死んだ者は、罰せない。だから、家を罰した。ヴェルナー家は、領地を取り上げられた。父は、その冬に死んだ。母は、実家に帰った」
「……セイルは」
「十五だった」
セイルは、匙を、布に包み直した。
「家にあったものは、全部、持っていかれた。これだけ、隠して持ち出した」
布の包みを、懐に戻した。
「兄は、弱かったんだ」
セイルは、言った。
「三百人を、斬れるほど強くなかった。だから、死んだ。だから、俺は」
セイルは、拳を、机の上で握った。
「兄より、強くなる。三百人に囲まれても、一人で斬れるくらい、強くなる。そうすれば、死なない」
それは、たぶん、三年間、セイルがずっと、自分に言い聞かせてきた言葉だった。
◇
ドッジが、寝床の上で、身じろぎをした。
「なあ、セイル」
ドッジの声は、いつもと同じ、のんきな声だった。
でも、少しだけ、違っていた。
「お前の兄ちゃん、一人だったから死んだんじゃねえのか」
セイルの拳が、止まった。
「強くなかったから、じゃなくてさ」
ドッジは、天井を見たまま、言った。
「一人で出たから、だろ。待てって言われてたのに。一人で行ったから、部下が追っかけて、みんな一緒に囲まれた。待ってたら、上の隊が来て、三百人とも、ちゃんと戦えたんじゃねえのか」
「……」
「ロク村で、お前が一人で行ったとき、俺、追っかけたろ」
ドッジは、自分の折れた脚を、ちらりと見た。
「お前の兄ちゃんの部下も、たぶん、同じ気持ちだったと思うぞ。一人にできなかったんだ」
セイルは、答えなかった。
ドッジを見ていた。
何か言おうとして、口を開いた。
閉じた。
また開いた。
何も、出てこなかった。
セイルは、立ち上がった。ふらついて、机に手をついた。俺が支えようとすると、その手を、振り払った。
「……寝る」
それだけ言って、食堂を出ていった。
足取りは、まだ、ふらついていた。でも、さっきより、まっすぐだった。
俺とエルナは、顔を見合わせた。
ドッジは、天井を見たまま、ため息をついた。
「……言いすぎたか」
「いや」
「言いすぎたよな。酔ってるやつに」
「酔ってなかったら、聞かなかったと思う」
「そうかな」
「たぶん」
エルナが、ドッジの寝床の横に、ひざまずいた。脛の添え木の、紐の締まり具合を、確かめた。
確かめ終わって、立ち上がるときに、ぽつりと言った。
「……いい壁」
ドッジは、照れて、毛布を頭までかぶった。
毛布の中から、腹が鳴る音がした。
◇
次の朝、セイルは、いつもの時刻に、中庭で剣を振っていた。
目の下に、くまがあった。額に、机にぶつけた痣があった。それでも、剣先は、ぴたりと止まって、ぶれなかった。
昨夜のことは、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
朝の煮込みを食べ終えたころ、ガルドが食堂に入ってきた。
ドッジの寝床の前まで来て、それから、四人の顔を、順番に見た。
俺。ドッジ。セイル。エルナ。
「第七班」
ガルドは言った。
「昼に、団長の部屋に来い。全員だ」
「……何か、やらかしましたか」
ドッジが、毛布を握りしめた。
「飯抜き、ですか」
「違う」
ガルドは、首から下げた自分の札を、指で弾いた。
銀色の札が、ちりん、と鳴った。
「札を、替える」
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