母の話
砦に戻って、三日がたった。
ドッジは、食堂の隅に寝床を作ってもらって、そこに寝かされていた。部屋から食堂まで運ぶのが大変すぎる、とマーサ婆さんが言い出したのだ。
「食べ物のそばに置いとくのが、一番早く治る」
マーサ婆さんの言うことは、たぶん、正しかった。ドッジは、三日で顔色がよくなった。
ただ、食堂で寝ているので、団員が飯を食べに来るたびに、一口ずつ分けてもらっていた。
「班長さんに、ひと口」
「熊を止めた男に、ひと口」
「壁に、ひと口」
ドッジの寝床のまわりには、いつも何か食べ物が置いてあった。
「怪我人のほうが、太るってどういうことだ」
「治るためだ」
ドッジは、真顔で言った。
ロク村の熊の話は、砦じゅうに広まっていた。四人で倒したことも。誰も死ななかったことも。ボリスが、食堂で、俺の背中をばんばん叩いた。背中の爪の傷に響いて、俺は涙目になった。
エルナの肩のことは、誰にも話していなかった。
ガルドには、崖道で転んで、岩で肩を切った、とだけ言った。本当のことだった。ガルドは、そうか、と言っただけだった。
エルナは、あれから、俺と目を合わせなかった。
食堂では、いつもの端の席に座って、いつものように黙って煮込みを食べていた。肩には、俺の上着ではなく、自分の新しい服を着ていた。
三日間、一言も、話さなかった。
◇
四日目の夕方、物見台の番だった。
百二十段を上りきって、石の囲いにもたれた。背中の傷が、まだ少し引きつれた。
日が、西の山に沈みかけていた。リンデの町の屋根が、赤く染まっていた。ドッジの家の、一番黒い煙が、まっすぐ空に上っていた。
後ろで、足音がした。
階段を、誰かが上ってくる。軽い足音だった。
エルナだった。
両手で、湯気の立つ木の椀を持っていた。百二十段を、一滴もこぼさずに上ってきたらしい。
「目」
エルナは、椀を差し出した。
「……疲れる。飲んで」
受け取った。苦かった。物見台で初めて狼を見つけた日に、食堂で飲んだのと同じ味だった。
エルナは、石の囲いに背中をあずけて、座った。
帰らなかった。
しばらく、二人とも、黙っていた。
風が、強かった。旗竿の赤い布が、ばたばたと鳴った。
「背中」
エルナが言った。
「傷。見せて」
「……もう、大丈夫だ」
「大丈夫かどうかは、私が決める」
俺は、背中を向けた。エルナが、服をめくった。指先が、傷のまわりを、そっと押した。
「膿んでない。でも、引きつれてる。毎晩、寝る前に、この油を塗って。薄く。薄くというのは、指で一回なぞって、余った分は拭き取るくらい。強くこすらない。こすると、また開く。それから、三日は、旗竿を右手で振らない。右を使うと、背中の、この筋が引っぱられる。左で振って。左で振るときは、肘を伸ばしきらない。伸ばしきると、やっぱり引っぱられる。それと、寝るときは、仰向けにならない。横向き。右を下にしない。左を下に」
息継ぎが、なかった。
「……エルナ」
「何」
「食堂では、一日三言なのに」
「薬は、間違えると、死ぬ」
エルナは、俺の服を戻した。
「おしゃべりは、間違えても、死なない」
「なら、おしゃべりのほうが、簡単だろ」
エルナは、少し黙った。
「……間違えると、ばれる」
◇
日が、沈みきった。
空が、群青色になった。北の山の上に、星が一つ、出た。
「母さんは、薬師だった」
エルナが、星を見たまま、言った。
「南の、ミルハっていう、小さな町。川沿いの。薬草がたくさん採れる」
俺は、黙って聞いていた。
「母さんも、刻印持ちだった。右の背中に。誰にも、言ってなかった。父さんは、私が生まれる前に死んだから、知ってたのは、私だけ」
「……エルナのは」
「生まれつき。母さんが、言ってた。生まれた日に、肩が光ったって。夜だったから、すぐ分かったって」
エルナの右手が、左の肩に触れた。服の上から。
「母さんは、私に、三つ教えた。肩を、誰にも見せない。痛いとき、息を止めない。息を止めると、光るから。それと」
エルナは、言葉を切った。
「しゃべらない。しゃべると、いつか、余計なことを言うから」
十歳のとき、と、エルナは言った。
魔導院の巡回が、ミルハに来た。灰色の外套の役人が、町の子どもを並ばせて、肩と腕を見ていった。
エルナは、その日、熱を出したことにして、家の奥に隠れていた。母さんが、そうさせた。
役人は、何も見つけずに帰っていった。
「でも、次の日、また来た」
「……誰か、知らせたのか」
「隣の家の、おばさん。母さんの薬で、旦那さんの咳が治った人」
エルナの声は、平らだった。何の色もついていなかった。
「刻印持ちを知らせると、お金がもらえる。銀貨、十枚」
「……」
「母さんは、自分の背中を見せた。私のことは、言わなかった。自分だけが刻印持ちで、娘は違うって。役人は、母さんだけを、連れていった」
風が、旗を鳴らした。
「手紙が、三通、来た。最初の年に。元気にしている。王都は人が多い。薬の勉強を、続けなさい。字が、だんだん、母さんの字じゃなくなっていった」
「……字が?」
「上手になった。きれいになった。誰かに、書かされてるみたいに」
エルナは、膝を抱えた。
「四通目は、来なかった。もう、六年になる」
何も、言えなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
ばあちゃんと暮らしていた、とエルナは言った。母さんの母さんで、やっぱり薬師だった。去年の冬に、死んだ。ミルハには、もう、誰もいない。巡回は、三年に一度、必ず来る。だから、北へ来た。
「なんで、傭兵団に」
「傭兵は、誰も、昔のことを訊かない」
エルナは、言った。
「それに、服を脱いで、体を調べたりしない。怪我をしたら、自分で縫う。薬師がいれば、みんな喜ぶ」
「……そうか」
「でも、怪我をした」
エルナは、俺を見た。
三日ぶりに、目が合った。
「肩を、見られた」
俺は、空になった椀を、石の囲いの上に置いた。
「エルナ」
「……」
「俺は、見張りだ」
エルナは、黙って俺を見ていた。
「見たものは、全部、下に知らせろって言われてる。見間違いでもいいから、全部言えって。見えたのに黙ってたら、誰かが死ぬって」
「……なら」
「でも」
俺は、北の山を見た。セラ村の、ずっと向こうの山だった。
「黙ってたら誰かが死ぬものと、言ったら誰かが死ぬものがある」
見張り台の上で、ミラとパンを半分こした夕方を、思い出した。
連れていかれたら、帰ってこられないんだよ。
「俺は、見張りだ。見たものを、全部言うわけじゃない」
エルナは、長い間、何も言わなかった。
それから、膝の間に、顔をうずめた。
肩が、少しだけ、震えていた。
息を、止めていなかった。だから、きっと、光ってはいなかったと思う。
◇
二人で、物見台を下りた。
中庭は、もう真っ暗だった。食堂の窓から、明かりと、笑い声が漏れていた。ドッジの声が、一番大きかった。
井戸のそばに、誰かが座っていた。
セイルだった。
井戸の縁に、背中をあずけて、地面に座り込んでいた。足を、投げ出していた。いつも背筋がまっすぐなセイルが、そんな座り方をするのを、初めて見た。
手に、瓶を握っていた。
第二隊の酒飲みたちが、夜中に歌いながら飲んでいる、安い葡萄酒の瓶だった。
セイルは、顔を上げた。
目の焦点が、合っていなかった。
「……見るな」
ろれつが、回っていなかった。
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