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刻印

 エルナを、引き上げた。

 右の手首を両手でつかんで、崖道に尻もちをつきながら、引っぱった。エルナは軽かった。ドッジを背負ったときの、十分の一もなかった。

 二人とも、崖道に転がった。

 息が、上がっていた。

「……大丈夫か」

 エルナは、答えなかった。

 左の肩を、右手で押さえていた。指の間から、赤いものが、にじみ出ていた。

 前を見た。

 道は、すぐ先で、岩を回り込んで曲がっていた。担架を持ったガルドとセイルは、もうその向こうに行ってしまったらしい。姿が見えなかった。声も、聞こえなかった。

「隊長を、呼んでくる」

「呼ばないで」

 エルナの声が、鋭かった。

 俺は、立ちかけたまま、止まった。

「……でも、血が」

「自分で、やる」

 エルナは、腰の袋を、右手だけで開けようとした。うまく開かなかった。袋の口の紐が、指に絡まった。

 左手は、動かないみたいだった。

 肩を押さえていた右手が離れると、血が、袖を伝って、ぽたぽた落ちた。

 エルナは、唇を噛んで、自分の左の肩を見ようとした。首を、ぐっと回した。見えない場所だった。自分の肩の後ろは、誰にも見えない。

 エルナは、しばらく、そのまま動かなかった。

 それから、低い声で言った。

「……手伝って」


         ◇


「袋の、一番大きい包み。緑の紐の」

 言われたとおりに、袋を開けた。包みが、十も二十も入っていた。

「緑の紐」

「それは青」

「これか」

「それは黄緑。緑」

「……これ」

「それ」

 包みを開けると、乾いた葉っぱが、何枚も入っていた。

「三枚。噛んで」

「噛むのか」

「噛んで、つぶして。唾で、湿らせる。吐き出して、手のひらに」

 口に入れた。ものすごく苦かった。目の奥の疲れに効く、あのお茶の、何倍も苦かった。

「噛んだら、次。赤い紐の包み。粉。指先に、少しだけ。少しだけ。それは多い。半分。それも多い。その半分」

「……どれだけ少ないんだ」

「爪の先」

 エルナの指示は、細かかった。

 ものすごく、細かかった。どの葉を何枚、どの粉をどれだけ、どういう順番で、どのくらいの強さで押さえるのか。一つ間違えるたびに、すぐに直された。

 食堂では、一日に三言しか話さないのに。

 薬のことになると、まるで別人だった。

「布。肩の、裂けたところ。どけて。傷を見せて」

「……いいのか」

「見ないと、塗れない」

 エルナは、俺に背中を向けて、座り直した。

 それから、右手で、裂けた服の端を、つかんだ。

 ほんの少しだけ、ためらった。

 俺には、そう見えた。

 エルナは、服を、肩から下ろした。


 傷は、思ったより深くなかった。

 岩の角で、皮膚が斜めに裂けていた。指一本分くらいの長さ。血は、もう、だいぶ止まりかけていた。

 でも、俺の目は、傷を見ていなかった。

 傷の、すぐ上。肩の、丸いところ。

 青い模様があった。

 手のひらくらいの大きさだった。細い線が、真ん中から何本も枝分かれして、肩の丸みに沿って、広がっていた。木の枝みたいにも見えた。葉っぱの筋みたいにも見えた。

 入れ墨では、なかった。

 肌の、中にあった。

 肌の下から、透けて見えていた。

 そして、ほんの少しだけ、光っていた。

 昼の光の中で、見間違いかと思うくらい、かすかに。エルナが痛みに息を詰めるたびに、線の青が、少しだけ明るくなった。

 息を吐くと、また暗くなった。


 ――刻印を探していたのだ。

 灰色の外套の男が、村の子どもを並ばせて、一人ずつ、肩と腕を見ていった。

 この世界で魔法を使えるのは、生まれつき体のどこかに刻印がある者だけだ。千人に一人。見つかれば、魔導院に連れていかれる。

 ――連れていかれたら、帰ってこられないんだよ。

 ミラの声が、耳の奥で鳴った。


 俺の手が、止まっていた。

 エルナが、それに気づいた。

 背中を向けたまま、エルナの体が、こわばった。

 次の瞬間、エルナが振り向いた。

 右手に、小刀を握っていた。

 寝床の毛布の手前に、いつも置いていた、あの小刀だった。いつの間に抜いたのか、見えなかった。刃先が、俺の喉の、すぐ前にあった。

 エルナの目が、俺を見ていた。

 初めて、エルナの顔に、表情があった。

 怖がっていた。

 俺より、ずっと。


 俺は、動かなかった。

 動けなかったのではなかった。動かなかった。

 熊に追われたときも、野盗に剣を振り上げられたときも、足が勝手に固まった。今は、違った。自分で、止まっていた。

 手のひらに、噛みつぶした葉っぱが、まだ載っていた。

「……塗っても、いいか」

 俺は言った。

 エルナの小刀が、ほんの少しだけ、揺れた。

「傷。まだ、塗ってない。爪の先の、半分の半分の粉も、まだだ」

「……」

「全部塗らないと、たぶん、エルナに怒られる」

 エルナは、何も言わなかった。

 小刀の刃先が、少しずつ、下がっていった。

 下がりきって、エルナの膝の上に落ちた。

 エルナは、また、背中を向けた。


 傷に、葉っぱを塗った。

 粉を、爪の先の、半分の半分だけ振った。

 布を当てて、押さえた。強すぎず、弱すぎず。エルナに言われたとおりに。

 刻印には、触れなかった。

 布を巻き終えると、俺は、自分の上着を脱いで、エルナの肩にかけた。裂けた服の上から、肩がすっかり隠れるように。

 エルナは、上着の前を、右手で握りしめた。

「……見た」

 背中を向けたまま、エルナが言った。

「見た」

 俺は答えた。

 見えてしまったものは、見なかったことにはできない。目がいいというのは、そういうことだった。

 でも。

「……言わない」

 俺は言った。

「誰にも。隊長にも、セイルにも、ドッジにも」

 エルナは、しばらく黙っていた。

 岩の向こうから、ドッジの声が聞こえた。おーい、と、のんきな声だった。リオ、エルナ、どこだあ、と。

 エルナが、小さく、言った。

「言ったら」

 上着を握る手が、白くなっていた。

「私は、連れていかれる」

 エルナは、振り返らなかった。

「母さんみたいに」

お読みいただき、ありがとうございます。

毎日、朝7時と夜21時に更新します。

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