三日の見張り
北の岩場を見下ろせる、大きな岩の上に、腹ばいになった。
夜明け前から、ずっとそこにいた。
物見台と同じだった。見る。ただ、見る。いつもの形を、頭に入れる。
違うのは、見ているものが、俺を殺せるということだった。
一日目で、巣が分かった。
岩場の奥に、斜めに傾いた、平たい大岩があった。その下に、黒い穴が開いていた。穴の前の土が、踏み固められて、つるつるに光っていた。
夜明けに、そこから熊が出てきた。
鼻の横に、まだ矢が一本、刺さったままだった。もう一本は、抜けたのか、折れたのか、見えなかった。鼻のまわりの毛が、黒く固まっていた。
熊は、穴の前で一度立ち止まって、あたりの匂いを嗅いだ。
それから、歩き出した。
右の前足を、かばっていた。
地面につくたびに、ほんの少しだけ、体が左に傾く。昨日、ドッジの盾にぶつかったのは、右の肩だった。そのときに、痛めたのかもしれない。
熊の後ろから、子熊が二頭、出てきた。
小さくはなかった。大きな犬くらいはあった。母熊にじゃれつきながら、ついていった。
熊は、沢へ下りていった。
巣から沢へ行く道は、一本しかなかった。二つの大岩の間の、細い切れ目だった。人が二人並べば、いっぱいになるくらいの幅しかない。
熊は、そこを通って、沢で水を飲んだ。
飲み終わると、同じ切れ目を通って、巣に戻った。
日が高くなると、穴の中に入って、出てこなくなった。
夕方、また出てきた。今度は、子熊を連れて、南の斜面を下りていった。村の畑のほうへ。
夜中に、戻ってきた。
子熊の口のまわりが、土で汚れていた。
◇
二日目の朝、隣に、エルナが来た。
手に、小さな帳面と、炭の棒を持っていた。
「言って」
「……何を」
「見たこと。書く」
俺は、字が書けない。読むのも、少しだけだ。村では、誰も字を使わなかった。昨日の夜、帰ってから、見たことを全部覚えておこうとして、半分くらい忘れてしまった。それを、エルナは見ていたらしい。
「巣は、あの傾いた大岩の下」
エルナの炭の棒が、帳面の上を走った。
「夜明けに出る。沢へ下りる。道は、あの切れ目だけ。行きも帰りも、同じ道」
書く。
「右の前足を、かばってる。地面につくと、体が左に傾く」
書く。
「昼は、穴の中。夕方、子熊を連れて、畑へ。夜中に戻る」
書いて、エルナは手を止めた。
「子熊」
「二頭いる。大きな犬くらい」
エルナは、しばらく、帳面を見ていた。
炭の棒の先で、「子熊」と書いたところを、とんとんと叩いた。
「……どうする」
それは、俺も、昨日から考えていた。
熊は、村の畑を荒らしている。芋を掘り、豆を食べている。このまま放っておけば、冬の蓄えがなくなる。ロク村の人たちが、飢える。
でも、あの熊は、子どもを連れていた。
鼻に矢を刺されたまま、右の足を引きずりながら、子どもに飯を食わせに行っていた。
それを、殺しに来たのが、俺たちだった。
セラ村を、思い出した。
あの夜の、馬の上の男たちも、こんなふうに村を見下ろしていたのだろうか。
頭を振った。違う。あいつらは、飯のために焼いたんじゃない。
違う、と思った。でも、どこが違うのか、うまく言えなかった。
村に戻って、猟師の爺さんに訊いた。ロク村で、たった一人の猟師だった。
「その大きさなら、去年の春に生まれた子だな」
爺さんは、煙管をくわえたまま言った。
「もう、自分で餌を探せる。母熊がいなくなりゃ、山の奥に散る。どのみち、夏の終わりには親離れだ」
「子熊は、どうなりますか」
「どうもならん。熊は、熊だ」
爺さんは、煙を吐いた。
「母熊がいなくなった後で、子熊が村に下りてきたら、わしが追い上げる。子熊なら、わし一人で追える。母熊は、追えん。だから、あんたらを呼んだ」
「……子熊は、殺さなくていいんですか」
「殺したいのか」
「いえ」
「なら、殺さんでいい」
爺さんは、それだけ言って、家の中に入っていった。
エルナに、それを伝えた。
エルナは、帳面に、一行書き足した。
何と書いたのか、俺には読めなかった。
「なんて書いた」
「子熊は、追わない」
エルナは、帳面を閉じた。
それから、ぽつりと言った。
「……ありがと」
「何が」
「何でもない」
エルナが、何に礼を言ったのか、分からなかった。
◇
二日目の夜、帳面を、ドッジの寝床の横に広げた。
ドッジは、横になったまま、エルナの字を読んでいた。読めるらしい。鍛冶屋は、注文を帳面につけるからだ。
「なあ、リオ」
「ん」
「この作戦、飯の時間が書いてない」
「……飯の時間?」
「いつ、飯を食うんだ。熊を待ってる間か。倒した後か。前の晩に、多めに食っとくのか」
「それは、作戦じゃない」
「作戦だろ。腹が減ったら、盾が持てない」
ドッジは、真剣だった。
「書いといてくれ。前の晩、芋を多め」
エルナが、黙って、帳面の端に書き足した。
ドッジは、満足そうにうなずいた。
「これで、勝てる」
セイルは、部屋の隅の壁にもたれて、腕を組んでいた。一言も、口をきかなかった。
でも、帳面からは、目を離さなかった。
◇
三日目の朝も、熊は、同じ時刻に穴から出てきた。
同じ切れ目を通って、沢へ下りた。右の前足をかばって、左に傾いた。
三日間、一度も、違わなかった。
その夜、四人で、帳面を囲んだ。
ガルドは、少し離れた戸口に座って、酒を飲んでいた。口は、出さなかった。
「熊が通るのは、あの切れ目だけだ」
俺は、地面に、木の枝で線を引いた。
「幅は、人が二人分。熊なら、一頭がぎりぎり。だから、あそこで待てば、熊は、横にも後ろにも行けない。前にしか、来られない」
線の真ん中に、丸を一つ描いた。
「ここに、ドッジ」
「歩けないぞ」
「歩かなくていい。切れ目の、一番狭いところに座って、背中を岩につけて、盾を構えるだけだ。熊は、横に回れない。だから、お前を倒さないと、先に進めない」
「……壁になれってことか」
「壁でいい」
ドッジは、しばらく考えて、うなずいた。
「壁なら、できる」
「熊は、右の前足が悪い。ぶつかるとき、必ず左に傾く。だから、盾は、少しだけ右に向けて構える。そうすれば、熊の力が、盾の上を滑って、岩のほうへ逃げる」
丸の上に、もう一つ、印をつけた。
「エルナは、切れ目の上。岩の上だ。熊が盾にぶつかって、立ち上がったら、目を射る。左の目。右の目は、鼻の矢のせいで、もう半分ふさがってる」
「左目」
エルナが、帳面に書いた。
「俺は、沢の側から、熊を切れ目に追い込む。夜明けに、熊が沢で水を飲んでるところに、石を投げる。熊は、巣に逃げようとする。巣への道は、切れ目しかない」
「お前が、囮か」
セイルが、初めて口を開いた。
「足だけは、速い」
「熊が、お前を追ってきたら」
「切れ目に逃げ込む。ドッジの横をすり抜ける。熊は、ドッジにぶつかる」
「すり抜けられなかったら」
「すり抜ける」
セイルは、俺の顔を見た。
何か言いかけて、やめた。
「セイルは」
俺は、切れ目の出口に、最後の印をつけた。
「ここに隠れてて。熊が左目を射られて、立ち上がったら、熊の左側は、見えなくなる。左から、近づける」
「……それで」
「最後の一太刀だけ、頼む」
セイルの眉が、ぴくりと動いた。
「俺の役は、それだけか」
「それだけだ」
「熊を、追い込むのも、止めるのも、目を潰すのも、全部お前たちがやって。俺は、最後に、隠れていたところから出てきて、一回斬るだけか」
「一太刀で、足りるだろ」
俺は言った。
「お前の剣なら」
セイルは、黙った。
長い間、地面の線を見ていた。
「……喉だ」
やがて、ぽつりと言った。
「目を突いても、すぐには死なない。一頭目のとき、そうだった。もがいて、暴れた。喉の、顎の下。あそこなら、毛が薄い。立ち上がったとき、一番近くなる」
俺は、セイルを見た。
セイルは、俺のほうを見なかった。
「斬る場所くらい、俺に決めさせろ」
「……分かった」
エルナが、帳面に書いた。
喉。顎の下。
戸口で、ガルドが、酒の椀を置く音がした。
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