第1話:名簿
――延熹六年(一六三年)、涼州安定郡朝那。
郡が孝廉に挙げた。
孝廉は、郡が年に何人かを都へ推す仕組みである。孝に厚く、廉であるという意味の名で、挙げられた者は都へ出て、官に就く道に入る。戸の数で員が決まっていて、安定郡のように小さい郡は、一年に一人か二人しか出せない。
書くのは掾史の役だった。
皇甫嵩は、役所の土間でそれを見ていた。数えで二十七になっている。
掾史は閔といった。眉の上に、古い傷の線が一本ある。二十二年前、叔父の書き物の写しを取りに家へ来た男である。皇甫嵩はその顔を覚えていたが、閔のほうは、ずっと覚えていない様子だった。
名簿は、紙を二つ折りにして綴じる。
閔は、まず郡の名を書いた。それから年を書き、そのあとで、推す者の名を書いた。
皇甫嵩、と書かれるのを、当人が横で見ていた。
「字は、これでよろしいか」
「はい」
「嵩は、山の高いところだ」
「そう聞いております」
閔は筆を置いて、紙を乾かした。
乾くのを待つあいだ、箱を出してきた。名簿を入れる箱である。都へ送る分と、郡に残す分を別々に入れる。
箱の中には、去年の分がまだ入っていた。
去年は一枚だった。
今年の箱に入る紙は、去年より一枚多かった。
叔父が度遼将軍になったという報せが来た。
度遼将軍は、北の境に置く軍の頭である。匈奴と接する土地を見る役で、都には置かない。
役所で触れ書きを読んでいると、古老が寄ってきた。郡の書庫を預かっている老人で、字の古い形をよく知っている。
「同じ役だ」
「何がですか」
「曾祖父さまと、同じ役だ」
皇甫嵩は、触れ書きから顔を上げた。
曾祖父の皇甫棱は、度遼将軍だった。母が虫干しをしていた三枚の辞令の、いちばん古い一枚である。二十二年前、五つのときに見た。
「よく覚えておられますね」
「書庫にあるからな。わしが覚えているのではない、紙が覚えている」
老人はそう言って、奥へ行った。
皇甫嵩は、そのあとで書庫に入れてもらった。
古い辞令の控えが、年ごとに束ねてある。老人が言った束を抜いてきて、埃を落とした。皇甫棱の名があった。官の名もあった。
名と、官。二つである。
何年そこにいたのか。何をしたのか。どうして離れたのか。控えには、就いたことしか書いていない。
「叔父上は、曾祖父のことを話されますか」
「聞いたことがないな」
老人は、こちらを見ずに答えた。
家に帰ってから、母にも訊いた。母も知らなかった。父からの書状に出てきたこともない。
その曾祖父のことを、家の誰も詳しくは知らなかった。
――延熹七年(一六四年)、涼州安定郡。
叔父から書が出た、と聞いた。
都へ上げた上書である。中身は、張奐という男を薦めるものだった。
張奐は、九年前に安定属国都尉として来た男である。羌から馬二十匹と金の鐻八枚を受け取り、羌たちの前で酒を地に注いで、そのまま返させた。皇甫嵩は、その数を帳面から消した。
薦めるというのは、自分より下の者を引き上げるときにすることである。
叔父がしたのは、それではなかった。
自分の代わりに立てる、と書いてあった。度遼将軍を、張奐に譲るという書である。
朝廷は、それに従った。
叔父が郡を通ったとき、皇甫嵩は門のところまで出た。
「叔父上」
「なんだ」
「なぜ、譲られたのですか」
叔父は馬の口を取らせたまま、少し立っていた。
「あの男のほうが向いている」
「向いている、と申しますと」
「向いているのだ」
それだけだった。
叔父は馬に乗り、東へ行った。度遼将軍を退いたあとの官が、まだ決まっていない。決まらないまま、都のほうへ行くのだという。
皇甫嵩は、道が曲がるところまで見ていた。
向いている、という言い方を、そのあと何度か考えた。
張奐は、受け取ってから返す男である。叔父は、答えない男である。どちらが度遼将軍に向いているのか。向いているというのは、何ができることを言うのか。
向いている、とはどういうことなのかが、分からなかった。
その年の秋、こんどは州から挙げられた。
茂才である。孝廉が郡から挙げるのに対して、茂才は州が挙げる。員は郡より少ない。涼州ぜんたいで、年に一人か二人だった。
州の使いが、郡の役所へ来た。
名簿を突き合わせるためである。州の名簿と郡の名簿に、同じ名が載っていないかを見る。載っていれば、どちらかを下ろす。
閔が、郡の箱を出した。
使いは、自分の持ってきた紙を横に置いて、一行ずつ指でなぞった。
「去年の孝廉に、同じ名がありますが」
「同じ者です」
「同じ者を、二年続けて」
「挙げました」
閔は、それだけ答えた。
使いは、しばらく紙を見ていた。それから自分の紙に何か書き足して、箱を閉じた。
皇甫嵩は、その場にいなかった。あとで閔から聞いた。
「どう書き足されたのですか」
「知らん。向こうの紙だ」
閔は筆を洗いながら答えた。
その年、都から郡へ来る文の数が増えた。
増えたのは、詔でも触れ書きでもない。名簿の照合を求めるもの、人の来歴を問うもの、前の年の推挙について確かめるもの。そういう類いの文である。
月ごとに、綴じる束が厚くなっていった。
都から来る文が、月ごとに増えていった。
――延熹八年(一六五年)、涼州安定郡。
太尉から辟が来た。
辟というのは、高い官が自分の属官として人を呼ぶことである。詔で呼ぶのとは違う。呼ぶ側が自分の名で呼び、呼ばれた側は行くか行かないかを選べる。選べることになっている。
太尉は、三公の一つである。都でいちばん高い官の一つが、辺境の一人を名指しで呼んでいた。
名は、陳蕃といった。
使いが置いていった書を、皇甫嵩は二度読んだ。文は短い。来てほしい、とだけ書いてある。理由は書いていない。
その晩、返書を書いた。
紙を選ぶところからはじめた。郡の役所で使う紙は粗い。家にある紙は、父から来た雁門の紙と、都から来た文の裏が使える分だけである。都の紙に、都への返書を書くのは、妙な気がした。
結局、郡の紙を使った。
書き出しに半刻かかった。
謹んで、と書いて、そのあとが続かない。行かないと書くのは易しい。行かない理由を書こうとすると、筆が止まる。
母が入ってきて、灯の油を足した。
「行かれないのですか」
「行きません」
「お書きになったほうがよろしいでしょう。理由を」
「書けません」
母は何も言わずに出ていった。
夜半までかかって、書き上げた。
謹んで承る、とは書かなかった。承れない、と書いた。病とは書かなかった。家のこととも書かなかった。
書き上がった返書に、理由の行が無かった。




