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三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第二章 三明(さんめい)

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第4話:集めた金

 ――延熹五年(一六二年)、涼州安定郡。


 金を集めに来た者は、まず詫びの話からはじめた。

 皇甫規の妻は、戸口のところで立ったまま聞いた。上がるようにとは言わなかった。

 来たのは夫の属官で、二人だった。年上のほうが話し、若いほうは後ろで包みを持っていた。

 話の中身はこうである。

 都の中常侍が二人、機嫌を損ねている。このままでは何が起きるか分からない。そこで、幕下の者たちで金を出し合い、詫びの形にする。一度きりで済む。そういう例はいくらでもある。

 妻は、最後まで聞いた。


「いかほどですか」

「家ごとに、できる分だけで」

「できる分は、ございます」


 そう答えて、少し間を置いた。


「ですが、出しません」

「奥方――」

「夫が、聴かないと申しております」


 年上のほうが、口を開きかけてやめた。

 妻は、それ以上の理由を言わなかった。言う理由が無いからである。夫が聴かないと言っている。それが答えであって、その先は妻の持ち物ではない。

 二人は礼をして帰った。若いほうは、包みを持ったまま出ていった。

 そのあと、金は集まらなかったわけではない。

 幕下の何人かは出した。出した分は、まとめて一つの箱に入れられた。

 だが、その箱を持っていく者がいなかった。持っていって渡す者が要る。渡す相手を決める者も要る。皇甫規が聴かないので、どちらも決まらない。


 集めた金は、どこへも行かずに残った。




 罪状の写しが、郡に回ってきた。

 皇甫規、残りの賊が絶えない。

 それだけである。

 廷尉(ていい)に繋がれ、左校(さこう)に輸する、とあった。左校は宮殿や陵の普請をする役所で、輸するというのは、そこへ送って労役に就かせることである。

 皇甫嵩は、その紙を最後まで読んだ。

 読んで、もう一度はじめから読んだ。

 零吾を破って首を斬ること八百級、とは書いていない。

 先零の諸種が十余万降った、とも書いていない。

 菴廬に入ったとも、東羌が降を乞うたとも、涼州が通じたとも書いていない。

 書いてあるのは、余寇不絶(よこうふぜつ)の四字と、刑の名だけだった。

 役所の者は、誰も紙の前に立たなかった。

 触れ書きは掲げられ、掲げられたまま、誰も読みに来ない。梁冀が死んだときは、人が集まって離れてまた戻ってきた。こんどは、はじめから来ない。

 夕方、皇甫嵩は写しを一枚もらって帰った。

 家で、母に見せた。母は読んで、返した。何も言わなかった。


 十余万という数は、その紙のどこにも書かれていなかった。




 訴えが出た、という話が届いた。

 朝廷の高い官の者たちと、太学の書生たちが、宮門の前に立って訴えたのだという。太学は、都にある国の学問所である。

 書生の側の人数が、書いてあった。

 張鳳(ちょうほう)ら三百余人。

 皇甫嵩は、その数のところで手が止まった。

 三百余人という数を、この男は十四年のあいだ見ていた。叔父の塾の土間に座っていた数である。数えるのをやめろと言われるまで、名を帳面に書き、来た日に印を付けていた。

 都で立った三百余人と、土間に座っていた三百余人は、別の三百余人である。

 それでも、数が同じだった。

 名が書き出されてきたのは、そのあとである。郡へ回ってきたのは全部ではなく、はじめのほうの何十人かだけだった。

 皇甫嵩は、その名を上から順に見ていった。

 知っている姓はあった。同じ姓の者は、どこにでもいる。

 知っている名は、無かった。

 塾から出ていった者たちの行き先を、皇甫嵩はおおよそ知っている。何人かは郡の役所に入った。何人かは県の吏になった。都まで行った者も、二人か三人はいたはずである。


 訴えた者の中に、この郡から出ていった門徒の名は、一つも無かった。




 大赦があった。

 皇甫規は、左校を出て、涼州へ帰ってきた。

 門のところに、妻と甥が立っていた。

 妻は、出てくるときと同じ顔をしていた。甥は――皇甫嵩は、二十六になっている。背は、もう自分より高い。

 歩きながら、言うことを考えていた。

 労役のあいだ、考える時間はいくらでもあった。石を運ぶのは、手と足の仕事で、頭は空いている。

 言えることと、言えないことがある。

 勝つな、とは言えない。

 この家は、勝って食っている家である。曾祖父も、祖父も、兄も、境を守る役に就いた。勝てなければ、その役に就けない。就けなければ、食えない。

 勝ったあとで黙っていろ、とも言えない。黙っていた。それでこうなった。

 取るな、とも言えない。取らなかった。それでこうなった。

 では何を言えばいいのか。

 門まで来た。

 妻が何か言った。聞こえたが、意味が頭に入るのに少しかかった。甥が一歩前に出て、荷を受け取ろうとした。

 その手が、自分の手のそばに来た。

 皇甫規は、口を開いた。


「嵩」

「はい」


 言いかけて、言わなかった。

 左校で皮の剥けた手を、袖の中に入れた。



第二章 三明 ――完。


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