第3話:菴廬(あんろ)
――延熹五年(一六二年)、涼州安定郡。
隴右で疫が出た。
軍中に広がり、十人のうち三人か四人が死んだという。郡に来た報せには、そう書いてあった。
そのあとに、一行あった。
皇甫規、みずから菴廬に入り、巡視すること疾めるが如し、と。
菴廬は、病人を隔てて入れておく小屋である。軍のいちばん外れに建てて、風下に置く。入れば出られない者もいる。将が行く場所ではない。
皇甫嵩は、その一行を三度読んだ。
三軍が感じ入った、と続いていた。
半月ほどして、郡から出した兵のうち、生きて帰った者が何人か戻ってきた。
そのうちの一人が、役所へ礼に来た。皇甫嵩は、そのとき帳面をつけていた。
「隴右のことを、聞かせてもらえますか」
「はい」
「零吾との戦は、どうでしたか」
男は少し考えて、それから小屋の話をした。
小屋には、一つに十五人ほど寝かされていた。朝と夕に人が来て、生きている者と死んだ者を分ける。分けるのは、いちばん下の兵の役である。
ある朝、その分ける者と一緒に、上の者が入ってきた。
誰かは分からなかった。顔は知らない。だが、まわりの者が急に動いたので、上の者だと分かった。
その男は、端から順に見ていった。一人ずつ、顔のところまで屈んだ。
何も言わなかった。
言わずに、次へ行った。
「それだけですか」
「それだけです」
男はそう言って、帰っていった。
そのあとも、生きて帰った者が役所へ来るたびに、皇甫嵩は同じことを訊いた。
帰ってきた兵は、その小屋の話をした。戦の話はしなかった。
東羌が使者を出して、降を乞うてきた。
涼州が、また通じるようになった。
通じるというのは、道が開くということである。道が開くとは、物が動くということだった。
郡の蔵に荷が入りはじめた。
皇甫嵩は、受け取りの役に回された。
荷を解き、中身を出し、帳面と突き合わせる。数が合えば印を押し、合わなければ書き留めて差し戻す。
入ってきたのは、紙と、墨と、布と、鉄だった。
鉄は鋤の先になる分である。何年も入ってこなかったので、郡の中では古い鋤を打ち直して使っていた。打ち直すたびに薄くなる。薄くなると、土の固いところで曲がる。
荷札を見た。
都から出ている。出た日付は、二月ほど前だった。
「二月かかりますか」
「かかる。途中が通っていなかったからな」
吏はそう言って、鉄の束を数えた。
「通っていれば、四十日だ」
皇甫嵩は、束を一つ持ち上げてみた。重かった。この重さのものが、四十日で来るはずのところを、二月かかって来ている。
そして、この荷が道を来ているあいだに、叔父は菴廬に入っている。
何年ぶりかで、都から来た荷が、郡の蔵に入った。
叔父が、涼州の官たちの罪を奏した。
一つずつ番号を振って、書き分けてある。その写しが郡に回ってきた。
皇甫嵩は、それを写す役に当たった。
はじめに、安定太守の孫儁。
取ったものが目に余る、とある。何をいくら取ったかは書いていない。ただ、目に余ると書いてある。
次に、督軍御史の張稟と、属国都尉の李翕。
降った羌を、多く殺した、とある。
皇甫嵩は、ここで一度筆を置いた。
降った羌というのは、前の年に十余万で降ってきた者たちのことである。住む場所を決め、食う粟を割った、あの帳面の者たちだった。
属国都尉という官のことも、思い出していた。七年前、その席には張奐がいた。馬二十匹と金の鐻八枚を受け取って、その場で返した男である。
張奐のあとに一人入り、いま李翕がいる。
七年で、三人が同じ印を持ったことになる。
最後に、涼州刺史の郭閎と、漢陽太守の趙熹。
老いて職に堪えない、とある。
五人である。
或る者は誅され、或る者は免ぜられた、と触れ書きの末尾にあった。どれが誅され、どれが免ぜられたかは書いていない。
そのあと、羌人がこれを聞いて、そろって善に返った、と書いてあった。
属国都尉の印は、七年のあいだに三人の手を渡っていた。
都から賓客が来た。
中常侍の徐璜と左悺の使いである、と名乗った。
用件は一つだった。涼州の戦の、手柄の子細を聞かせてほしい。
それだけを言った。
皇甫嵩は、そのとき役所にいた。叔父はこの年、涼州にいる。都から来た者は、まず郡を通る。
賓客は、言葉づかいの丁寧な男だった。脅しも、匂わせもしなかった。ただ、手柄の子細を、と言った。
「子細と申しますと」
「どの戦で、どれだけ斬られたか。誰がどう働いたか。そういうことです」
「触れ書きに出ております」
「触れ書きではなく、ご本人から」
そう言って、賓客は笑った。
叔父のところへは、別の日に行ったらしい。
どうなったかは、しばらくして分かった。叔父は、答えなかった。
断ったのではない。断れば、断ったという返事になる。別の話をしたのでもない。話をそらせば、そらしたという返事になる。
答えなかった。それだけである。
賓客は、そのあともう二度来た。
二度目は同じ男で、三度目は別の男だった。三度目の男は、はじめから短い時間しかいなかった。
賓客は三度来て、三度とも、手ぶらで帰った。




