第1話:方略
――永興元年(一五三年)、涼州安定郡朝那。
弓を引いた手のまま座ると、汗が竹簡に落ちる。
皇甫嵩は袖で指を拭いてから、巻を開いた。数えで十七になっていた。朝に弓、昼から塾。その順は、九つのときから変わっていない。
叔父の皇甫規は、易を講じていた。
土間には三百余人が座っている。前のほうは郡の吏の子、後ろのほうは県から歩いてくる者たちで、いちばん端には、いつも同じ子が座っていた。
この塾は十年続いている。
はじめの年に来ていた者は、もう来ない。三十を過ぎて役所に入り、子を連れてくるようになった者もいる。連れてこられた子が、いま前から二列目に座っていた。
講義のあいだ、叔父は巻を膝に置いたままで、ほとんど開かない。
開かなくても言えるのだった。開くのは、字の形を見せるときだけである。
皇甫嵩は、その巻の紐を見ていた。
竹簡は紐で綴じてある。使っているうちに紐は切れる。切れたら結び直す。結び目は綴じ目の外に残るので、結び直すたびに、そこが太くなる。
叔父の手元の巻は、綴じ目のあたりが二回りほど膨らんでいた。
「そこ、読め」
言われて、皇甫嵩は立った。
読んだ。読み終えて座ると、叔父は次の者を指した。何も言われなかった。間違えていれば何か言う。何も言わないのは、間違えていないということだった。
夕方、皆が帰ったあと、莚を巻くのを手伝った。
「叔父上」
「なんだ」
「その巻は、いつから使っておられますか」
「さあな」
叔父は巻を包みに入れ、包みの口を結んだ。結び方が、竹簡の紐と同じだった。
紐は、幾度も結び直された跡で、太くなっていた。
――永寿元年(一五五年)、涼州安定郡。
安定属国都尉に、張奐という男が来た。
属国都尉は、郡の内に住む羌を預かる役である。郡の太守とは別に置かれていて、羌のことだけを見る。
着任してひと月ほどで、羌の族長たちが馬を牽いてきた。
二十匹だった。先零の酋長は、別に金の鐻を八枚持ってきた。鐻は楽の器で、金で作れば金の値がそのまま重さになる。
皇甫嵩は、郡の使いについて役所の庭まで行った。十九になっていた。数を書き留める役である。
張奐は、それを受け取った。
断らなかった。馬は厩へ入れさせ、鐻は台に載せさせた。羌の族長たちが顔を見合わせるのが、後ろからでも分かった。
それから張奐は、主簿を呼んだ。
「酒を持て」
庭に酒が来た。
張奐は器を受け取り、羌たちのほうへ向いた。そして、地に注いだ。
「馬が羊ほどたくさんあっても、この厩には入れない。金が粟ほどあっても、この懐には入れない」
言い終えて、器を返した。
そのあと、金も馬も、ことごとく返させた。二十匹を牽き出し、鐻を八枚とも箱に戻して、族長たちの手に渡した。
族長たちは、来たときより長く礼をして帰った。
皇甫嵩は、帳面に書いた数を消さなければならなかった。受け取った数を書き、返した数を書き、差引を〇にする。
受け取ってから、返した。はじめから断らなかった。
――永寿二年(一五六年)、涼州安定郡。
泰山で賊が出ているという話は、前の年から郡に届いていた。
叔孫無忌という者が県や邑を荒らし、州も郡も討てない。都から中郎将の宗資が出たが、これも克てなかった。泰山は都の東である。涼州からは、馬で行っても遠い。
詔が来たのは、春だった。
塾の途中で郡の吏が入ってきて、叔父を呼んだ。叔父は出ていき、しばらくして戻ってきて、莚の前に立ったまま言った。
「泰山の太守をやれ、とのことだ」
三百余人が、動かなかった。
皇甫嵩は、前から三列目に座っていた。そこは十年前から変わっていない。
「叔父上は、十四年、官に就いておられません」
「就いていないな」
「泰山は、涼州ではありません」
「涼州ではない」
叔父は、それだけ言って莚に座り、巻を開いた。
その日の講義は、いつもより短かった。
夕方、吏がもう一度来て、赴任の日取りを置いていった。皇甫嵩はそれを写した。写しながら、詔の文面をもう一度読んだ。
なぜ泰山なのかは、どこにも書いていない。涼州の男を、東の郡へやる理由も書いていない。十四年、野にあった者を使う理由も書いていない。
なぜ、いまなのか。
叔父が発つのは、その年の夏だった。
発つ十日ほど前から、塾は巻の仕分けにあてられた。
十四年分の竹簡である。誰かが持っていかなければ、この土間に残る。残っても、読む者がいない。
叔父は、持っていきたい者に持たせることにした。
皇甫嵩は、誰が何巻持っていくかを書き留める役を任された。
名を書き、巻の名を書き、数を書く。それを三日続けた。
多く持っていく者は、多くもらえるから持っていくのではなかった。家が遠い者ほど多く持っていく。もう来られないからである。近い者は少ししか取らない。また来られると思っている。
三百余人のうち、半分ほどが取りに来た。
残りの半分は、来なかった。
「残った分は、どうなさいますか」
「置いていく」
「読む者がおりません」
「そのうち出る」
叔父はそう言って、あとは何も言わなかった。
発つ朝、門のところに人が集まった。見送りに来た者の数は、塾の門徒の数よりはるかに少なかった。多くは、もう別の土地にいる。
叔父が出ていったあと、皇甫嵩は土間に戻った。
莚は巻いて隅に寄せてあった。巻の包みが、壁ぎわに三十ばかり残っていた。
三百余人が出ていったあとの部屋は、思ったより狭かった。
――永寿三年(一五七年)、涼州安定郡。
叔父が泰山の賊を平らげたという報せが、郡に来た。
皇甫嵩は、その触れ書きを二度読んだ。
戦ったとは、書いていなかった。
書いてあったのは、こうである。皇甫規、泰山太守として、方略を広く設け、賊はみな降り、平らいだ。
方略を広く設けた、という。
「これは、どういう意味ですか」
役所の吏に訊いた。眉の上に、古い傷の線が一本ある男である。
「書いてあるとおりだろう」
「戦ったとは書いておりません」
「書いていないな」
吏は触れ書きを受け取って、自分でも一度読んだ。
「賊が降ったのだから、降るようにしたのだ」
「どうやって」
「そこは、書かない」
吏は紙を返した。
皇甫嵩は、それを綴じる箱へ入れた。入れる前に、もう一度だけ読んだ。
賊が何人いたのかも、降ったのが何人なのかも、書いていない。何をしたのかも書いていない。
方略とは何をすることなのかが、どこにも書いていない。




