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三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第九章 五千万

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第1話:南宮

 ――中平二年(一八五年)二月、冀州(きしゅう)の治所。


 都が焼けた。

 二月己酉(きゆう)、南宮が焼けた、という報せが来た。

 南宮は、洛陽(らくよう)の宮城のうち、南にあるほうである。帝が政を聞く殿舎も、文書を置く蔵も、そちらにある。

 火は、半月燃えた。

 半月燃えて、ようやく消えたと、報せには書いてあった。

 皇甫嵩(こうほすう)は、その行を読んで、日を数えた。

 起きたのが二月己酉。消えたのが、それから半月。報せがここへ着くまでに、また日がかかる。

 つまり、いま読んでいるこれは、終わったことの報せである。

 火事の報せというのは、たいてい二つに分かれる。燃えているという報せと、燃え終わったという報せである。前のほうは早く来る。後のほうは正確に来る。

 来たのは、後のほうだった。

 前のほうは、来ていない。

 途中で止まったのか、出されなかったのかは、分からない。

 報せを、郡へ回すかどうかを決めなければならない。

 都の宮城が焼けたことは、州の民に関わらない。関わらないが、いずれ知れる。知れたときに、州の役所が知らなかったことになるのは、まずい。

 回すことにした。

 ただし、日付を書き添えさせた。いつ起きて、いつ消えたかを、書く。

 書かなければ、読んだ者は、いま燃えていると思う。

 半月というのは、長い。

 去年の五月、長社で原に火を放った。あの火は、ひと晩で原を渡り、朝には消えていた。草だからである。

 宮城は、木と瓦と土でできている。

 木は、草より長く燃える。


 報せが届いたときには、火はもう消えていた。




 詔が来た。

 天下の田に、税をかける。一畝(いちぼ)につき十銭。

 畝(ぼ)は、田の広さの単位である。

 何のためかも、詔に書いてあった。宮室を修めるため、そして銅人を鋳るためである。銅人というのは、銅で人の形の像を鋳ることをいう。

 皇甫嵩は、二度読んだ。

 それから、去年の束を出させた。

 冀州の田租を一年免ずる、という文書の写しである。去年の十一月に奏請し、従う、という返事が来て、県から郷へ下ろした。

 二つを、机の上に並べた。

 去年の文書には、田租と書いてある。

 今年の詔には、田租とは書いていない。天下の田に税す、と書いてある。

 名が、違う。

 名が違うものは、別のものである。免じたのは田租であって、田そのものにかかる別の税を免じたわけではない。書式の上では、そうなる。

 書式の上では、そうなる。

 触れを、州へ回させた。

 県から郷へ、郷から里へ下りていく。去年と同じ道筋である。

 三日目に、県の吏から報せが来た。

 受け取りに来た者の中に、去年、免除の触れを受け取りに来た者がいる、という。同じ里の、同じ家である。

 去年は男が来て、今年は女が来た。戸主が替わったのかもしれないし、来られなくなっただけかもしれない。県の吏は、そこまで書いていない。

 その女は、触れを読ませて、聞き終わって、何も訊かずに帰ったという。

 訊かれなかったので、吏は説明していない。

 説明することも、無い。免じたのは田租である。かかるのは、田への税である。二つは、名が違う。

 皇甫嵩は、去年の束を閉じた。

 閉じてから、開き直して、免除の期間の行を見た。

 中平元年より一年、とある。


 免除した年が、まだ終わっていない。




 ――中平二年(一八五年)三月、冀州の治所。


 西から、報せが来た。

 湟中(こうちゅう)の義従胡が反した、という。義従胡というのは、漢に従って兵を出している胡のことである。

 頭の名が、二つ書いてあった。北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)と、李文侯(りぶんこう)。

 護羌校尉(ごきょうこうい)の泠徵(れいちょう)が、殺された。羌を監する官である。

 そのあと、金城(きんじょう)へ入った。金城太守の陳懿(ちんい)も殺された。

 そして――数万騎で、三輔(さんぽ)へ攻め入っている。

 三輔は、都の西のあたりの、三つの郡をいう。

 園陵(えんりょう)を犯す、と称しているという。

 園陵というのは、歴代の帝の墓である。

 皇甫嵩は、報せを運んできた者に訊いた。


「湟中は、どのあたりですか」

「存じません」

「金城は」

「それも、存じません」


 都から来た者である。西を知らない。

 皇甫嵩は、紙を出して、自分で書いた。

 湟中は、涼州の西の端に近い。金城郡は、その東である。金城から東へ出ると、隴西(ろうせい)があり、漢陽があり、そこから東へ下って安定に入る。安定の南が扶風で、扶風から東が三輔である。

 書いてみて、日数を出した。

 馬で、どれだけかかるか。

 早い騎なら、十日から十五日である。数万騎なら、そうはいかない。荷を引き、牛馬を連れ、途中で食わせなければならない。

 三輔まで来るとすれば、まだ日がある。

 だが、来ないとは言えない。

 園陵を犯す、というのは、そこを目指していると言っているに等しい。言うだけなら、誰にでもできる。


 犯すと称している。まだ犯していない。




 ――中平二年(一八五年)三月、長安(ちょうあん)。


 詔が来た。

 左車騎将軍・皇甫嵩を遣わして、これを討たせる、とある。

 もう一行あった。

 長安に鎮して、園陵を衛れ、とある。

 討て、と書いてあり、衛れ、と書いてある。

 二つは、同じことではない。討つには、こちらから行く。衛るには、行かない。

 皇甫嵩は、後のほうを取った。

 後のほうが、具体だったからである。討てという語には、どこで、誰を、いつ、が無い。衛れという語には、場所がある。園陵である。

 長安に入った。

 城の中に陣を置き、それから陵を回った。

 陵は、渭水(いすい)の北に並んでいる。高祖の長陵から、順に東西へ並ぶ。一つの陵のまわりに、守る者の住む里がある。

 道を走らせて、二日で見て回った。

 守るべき線を引いた。陵を全部囲うことはできない。数が多すぎる。囲えるのは、入ってくる道の口である。

 口は、西と北にある。

 西は、扶風から来る道。北は、馮翊(ひょうよく)から来る道。どちらも、涼州から下ってくれば、そこを通る。

 その二つに、兵を置いた。

 置いてから、陵のあいだを歩いた。

 石の獣が、道の両側に並んでいる。馬の形のもの、獅子の形のものがある。どれも大きい。

 風が、西から吹いていた。

 砂が来る。


 陵の石獣が、砂で半分埋まっていた。


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