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三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第八章 閻忠(えんちゅう)

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第3話:朽木

 外へ出た。

 答えるためではない。答えようとして、言葉が部屋の中で形にならなかった。

 庭である。

 灯を持たずに出た。月は無い。井戸の位置は、足で覚えている。

 息が白い。吐いたものが、すぐに見えなくなる。

 閻忠が、後ろから出てきた。出てきて、少し離れたところに立った。


「すでに朽ちた木は、彫ることができません」


 声が、部屋の中より低い。


「衰えた世の朝廷は、助けられません」


 皇甫嵩は、庭の土を踏んだ。凍りはじめている。踏むと、表だけが割れる。


「将軍がお立ちになれば」


 閻忠は、そこから先を、数えるように言った。


「涼州の兵が動きます。三輔(さんぽ)が続きます。冀州は、いま将軍の州でございます。八千戸は扶風(ふふう)にある。西は、繋がっております」


 皇甫嵩は、聞いていた。


「都までの道に、遮る軍はございません。黄巾を討ち平らげたのは将軍であって、いま兵を持っている者は、将軍のほかにおりません」


 閻忠は、そこで止めた。

 それ以上は言わない。言わないが、言わなかった先も、同じ調子で続けられる形になっていた。

 この男は、来る前に考えてきている。

 考えてきたことを、順に並べている。並べ方が、帳面に似ていた。


 手筈は、すでに数えられる形になっている。




 部屋へ戻った。

 湯が冷めている。表に薄い膜が張っていた。

 皇甫嵩は座って、膝に手を置いた。置いてから、手が少し震えているのが分かった。寒さではない。庭にいたのは、短い。

 閻忠が、正面に座った。

 答えた。


「尋常でない企ては、常の勢には施しません」


 声が、思ったより低く出た。


「秩序がまだ生きているところで、常でないことをしても、通りません」

「秩序は、生きておりますか」

「生きています」


 閻忠は、何も言わない。


「大きな功を、はじめから図る。これは、凡庸な才のなしうるところではありません」


 言いながら、自分が何を言っているかを聞いていた。凡庸な才、というのは、自分のことである。そう聞こえるように言っている。


「黄巾は、細かな賊です」

「十余万でございましたが」

「数は多い。敵としては、細い」


 皇甫嵩は、そこで一度切った。


「秦ではありません。項羽でもない。新しく結んだ集団は、散りやすい。散りやすいもので大事を成すのは、難しい」


 言い終わってから、気づいた。

 部屋の外の音が、聞こえない。

 廊下を歩く者がいない。外の道を行く者もいない。灯の芯が鳴る音だけがある。


 答えているうちに、外の物音が止んでいた。




 続けた。

 一度切ると、次が出にくくなる。出にくくなる前に、言い切らなければならない。

 息を継いだ。


「そして、人はまだ、主を忘れておりません」


 閻忠の眉が、わずかに動いた。


「天は、逆らう者を助けません」


 二つとも、短い。

 短いが、言い切るまでに、息を二つ使った。一つめで前の句を言い、二つめで後の句を言った。あいだに何も挟まなかった。

 挟めば、言い訳になる。

 皇甫嵩は、そのまま座っていた。

 閻忠も、座っていた。

 どちらも、次を言わない時間が、しばらくあった。


 言い切ったあと、湯が冷めきっているのに気づいた。




 まだ、終わっていない。

 言っていないことが一つ残っている。言わなければ、いま言った二つが、ただの建前になる。

 皇甫嵩は、言った。


「望まれてもいない功を、虚しく造る」


 閻忠が、顔を上げた。


「そうして、朝夕の禍を招く。それくらいなら」


 一つ置いた。


「忠を朝廷に委ね、臣としての節を守るほうが、どれほどましか」


 ここまでは、さっきまでと同じ調子である。

 ここから先が、違った。


「悪く言う者は、多いでしょう」


 言った。


「多いと言われたところで、せいぜい官を追われるだけです。放たれ、廃されるまででしょう」


 閻忠は、動かない。


「それでも、良い名は残ります。死んでも、朽ちません」


 皇甫嵩は、そこで閻忠の目を見た。


「常に反する論は、聞くわけにはいきません」


 言い終わった。

 言い終わってから、先月、地図の上で指を動かしたことを思い出した。槐里から美陽へ、そのまま北へ上げると安定がある。八千戸は、そこにある。

 あれを取り上げられたら、どうなるか。

 戸が減る。それだけである。

 命は、取られない。


 追われるだろう、と言った。言われる前に。




 閻忠は、部屋を出た。

 廊下は暗い。取次の者は、下がったまま戻っていない。

 外へ出て、門のところで立ち止まった。

 空が、東のほうだけ薄い。夜明けには、まだ間がある。

 計は、用いられなかった。

 用いられなかったこと自体は、来る前から半分は見えていた。この男が黄巾を討った八か月のやり方は、報せで追っている。軍を動かす前に、必ず書を出す。書を出してから動く。順を踏む男である。

 順を踏む男は、順を壊せと言われて、すぐには壊さない。

 だから、三つ用意してきた。

 時と機。功と徳。そして韓信。

 三つとも、届いていた。届いていないのではない。届いたうえで、返されている。返し方に、迷いが無かった。

 それは、分かっていた。

 分かっていなかったのは、最後の一つである。

 悪く言う者は多いでしょう、とこの男は言った。追われるだけです、と言った。

 ――それを、こちらが言うつもりだった。

 断れば、あとで悪く言われて潰される。韓信がそうだった。だから先に立て、という運びで、最後に置くはずだった一手である。

 先に言われた。

 先に言われたうえで、それでいい、と言われた。

 閻忠は、門の外の道を見た。

 来た道である。凍っている。

 役を退いてから、この男に会いに来るまでに、考える時間はいくらでもあった。考えた分は、全部使った。使って、残らなかった。

 門の内から、誰も出てこない。

 見送りを呼ぶ声も、しない。


 挨拶をしなかった。来たときには、した。




 文書が来た。

 都からである。冀州の戦費を問う、という。

 この一年、何にいくら使ったかを書いて出せ、とあった。書式が添えてある。欄が並んでいる。

 兵糧。

 馬の飼料。

 武具。

 車と舟。

 賞の分。

 最後に、雑。

 皇甫嵩は、吏に書かせはじめた。

 兵糧は出る。郡から出させた分と、都から回った分を足す。馬の飼料も出る。武具は、鋤を打ち直したものが混じっているので、数と額が合わない。そこには註を付けた。

 車は、焼いた三万余両をどう書くかで止まった。

 こちらの車ではない。敵の車である。焼いたのだから、使ってはいない。だが、焼くのに人と日を使っている。六日である。

 雑に入れた。

 賞の分は、まだ出ていない。出ていないものは、書けない。

 それで、全部の欄が埋まった。

 皇甫嵩は、もう一度、上から下まで見た。

 田租の免除が、無い。

 一年ぶんの田租を取らないと決めた。取らなければ、その分は入ってこない。入ってこない額は、出ていった額ではないので、使ったものとして書く欄が無い。

 雑にも入らない。雑は、使ったものの欄である。

 吏が、筆を持って待っていた。


 免除した田租の分が、どの欄にも書けない。



第八章 閻忠 ――完。


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