第3話:朽木
外へ出た。
答えるためではない。答えようとして、言葉が部屋の中で形にならなかった。
庭である。
灯を持たずに出た。月は無い。井戸の位置は、足で覚えている。
息が白い。吐いたものが、すぐに見えなくなる。
閻忠が、後ろから出てきた。出てきて、少し離れたところに立った。
「すでに朽ちた木は、彫ることができません」
声が、部屋の中より低い。
「衰えた世の朝廷は、助けられません」
皇甫嵩は、庭の土を踏んだ。凍りはじめている。踏むと、表だけが割れる。
「将軍がお立ちになれば」
閻忠は、そこから先を、数えるように言った。
「涼州の兵が動きます。三輔が続きます。冀州は、いま将軍の州でございます。八千戸は扶風にある。西は、繋がっております」
皇甫嵩は、聞いていた。
「都までの道に、遮る軍はございません。黄巾を討ち平らげたのは将軍であって、いま兵を持っている者は、将軍のほかにおりません」
閻忠は、そこで止めた。
それ以上は言わない。言わないが、言わなかった先も、同じ調子で続けられる形になっていた。
この男は、来る前に考えてきている。
考えてきたことを、順に並べている。並べ方が、帳面に似ていた。
手筈は、すでに数えられる形になっている。
部屋へ戻った。
湯が冷めている。表に薄い膜が張っていた。
皇甫嵩は座って、膝に手を置いた。置いてから、手が少し震えているのが分かった。寒さではない。庭にいたのは、短い。
閻忠が、正面に座った。
答えた。
「尋常でない企ては、常の勢には施しません」
声が、思ったより低く出た。
「秩序がまだ生きているところで、常でないことをしても、通りません」
「秩序は、生きておりますか」
「生きています」
閻忠は、何も言わない。
「大きな功を、はじめから図る。これは、凡庸な才のなしうるところではありません」
言いながら、自分が何を言っているかを聞いていた。凡庸な才、というのは、自分のことである。そう聞こえるように言っている。
「黄巾は、細かな賊です」
「十余万でございましたが」
「数は多い。敵としては、細い」
皇甫嵩は、そこで一度切った。
「秦ではありません。項羽でもない。新しく結んだ集団は、散りやすい。散りやすいもので大事を成すのは、難しい」
言い終わってから、気づいた。
部屋の外の音が、聞こえない。
廊下を歩く者がいない。外の道を行く者もいない。灯の芯が鳴る音だけがある。
答えているうちに、外の物音が止んでいた。
続けた。
一度切ると、次が出にくくなる。出にくくなる前に、言い切らなければならない。
息を継いだ。
「そして、人はまだ、主を忘れておりません」
閻忠の眉が、わずかに動いた。
「天は、逆らう者を助けません」
二つとも、短い。
短いが、言い切るまでに、息を二つ使った。一つめで前の句を言い、二つめで後の句を言った。あいだに何も挟まなかった。
挟めば、言い訳になる。
皇甫嵩は、そのまま座っていた。
閻忠も、座っていた。
どちらも、次を言わない時間が、しばらくあった。
言い切ったあと、湯が冷めきっているのに気づいた。
まだ、終わっていない。
言っていないことが一つ残っている。言わなければ、いま言った二つが、ただの建前になる。
皇甫嵩は、言った。
「望まれてもいない功を、虚しく造る」
閻忠が、顔を上げた。
「そうして、朝夕の禍を招く。それくらいなら」
一つ置いた。
「忠を朝廷に委ね、臣としての節を守るほうが、どれほどましか」
ここまでは、さっきまでと同じ調子である。
ここから先が、違った。
「悪く言う者は、多いでしょう」
言った。
「多いと言われたところで、せいぜい官を追われるだけです。放たれ、廃されるまででしょう」
閻忠は、動かない。
「それでも、良い名は残ります。死んでも、朽ちません」
皇甫嵩は、そこで閻忠の目を見た。
「常に反する論は、聞くわけにはいきません」
言い終わった。
言い終わってから、先月、地図の上で指を動かしたことを思い出した。槐里から美陽へ、そのまま北へ上げると安定がある。八千戸は、そこにある。
あれを取り上げられたら、どうなるか。
戸が減る。それだけである。
命は、取られない。
追われるだろう、と言った。言われる前に。
閻忠は、部屋を出た。
廊下は暗い。取次の者は、下がったまま戻っていない。
外へ出て、門のところで立ち止まった。
空が、東のほうだけ薄い。夜明けには、まだ間がある。
計は、用いられなかった。
用いられなかったこと自体は、来る前から半分は見えていた。この男が黄巾を討った八か月のやり方は、報せで追っている。軍を動かす前に、必ず書を出す。書を出してから動く。順を踏む男である。
順を踏む男は、順を壊せと言われて、すぐには壊さない。
だから、三つ用意してきた。
時と機。功と徳。そして韓信。
三つとも、届いていた。届いていないのではない。届いたうえで、返されている。返し方に、迷いが無かった。
それは、分かっていた。
分かっていなかったのは、最後の一つである。
悪く言う者は多いでしょう、とこの男は言った。追われるだけです、と言った。
――それを、こちらが言うつもりだった。
断れば、あとで悪く言われて潰される。韓信がそうだった。だから先に立て、という運びで、最後に置くはずだった一手である。
先に言われた。
先に言われたうえで、それでいい、と言われた。
閻忠は、門の外の道を見た。
来た道である。凍っている。
役を退いてから、この男に会いに来るまでに、考える時間はいくらでもあった。考えた分は、全部使った。使って、残らなかった。
門の内から、誰も出てこない。
見送りを呼ぶ声も、しない。
挨拶をしなかった。来たときには、した。
文書が来た。
都からである。冀州の戦費を問う、という。
この一年、何にいくら使ったかを書いて出せ、とあった。書式が添えてある。欄が並んでいる。
兵糧。
馬の飼料。
武具。
車と舟。
賞の分。
最後に、雑。
皇甫嵩は、吏に書かせはじめた。
兵糧は出る。郡から出させた分と、都から回った分を足す。馬の飼料も出る。武具は、鋤を打ち直したものが混じっているので、数と額が合わない。そこには註を付けた。
車は、焼いた三万余両をどう書くかで止まった。
こちらの車ではない。敵の車である。焼いたのだから、使ってはいない。だが、焼くのに人と日を使っている。六日である。
雑に入れた。
賞の分は、まだ出ていない。出ていないものは、書けない。
それで、全部の欄が埋まった。
皇甫嵩は、もう一度、上から下まで見た。
田租の免除が、無い。
一年ぶんの田租を取らないと決めた。取らなければ、その分は入ってこない。入ってこない額は、出ていった額ではないので、使ったものとして書く欄が無い。
雑にも入らない。雑は、使ったものの欄である。
吏が、筆を持って待っていた。
免除した田租の分が、どの欄にも書けない。
第八章 閻忠 ――完。




