第2話:信都から
取次の者が来た。
会いたいという者がいる、という。
名を訊いた。
「閻忠と申します。もと信都の令であったと」
信都は、この州の県である。鉅鹿郡の東、安平国にある。令は、県を預かる役だった。
もと、ということは、いまは役に就いていない。
「どこの生まれですか」
「漢陽と申しております」
涼州である。
皇甫嵩の郷里は安定郡で、漢陽はその南にあたる。同じ州の中で、二つ離れた郡になる。
役を退いた男が、涼州から冀州へ来たのか、この州のどこかに住み続けていたのかは、取次の言葉では分からない。
用件を訊かせた。
将軍に申し上げたいことがある、とだけ答えたという。
「何を申し上げたいのかは」
「それは、直に、と」
通してよいかを、取次の者が訊いている。
断ることはできる。役に就いていない者が、用件も言わずに州牧に会いたいと言う。断っても、誰も咎めない。
通すことにした。
なぜ通したのかを、自分でも決めていなかった。
取次の者が、もう一つ訊いた。
「腰の物は、いかがいたしましょう」
「常のとおりに」
常のとおりというのは、預からせる、という意味である。
しばらくして、通ってきた。
五十を越えている。背は高くない。冬の道を来た者の足元をしていた。
皇甫嵩は、その腰を見た。
閻忠は、腰の物を預けなかった。
部屋に通した。
冬の夜のはじめである。灯を一つ、机の上に置かせた。湯を出させた。
閻忠は、湯を持たなかった。
座って、膝の上で手を組んで、しばらく黙っていた。それから話しはじめた。
「得難くして失い易きものを、時と申します」
皇甫嵩は、聞いた。
「時が至って、踵をめぐらさぬことを、機と申します。聖人は常に時に順って動き、智者は必ず機によって発します」
湯気が、机の上で真っ直ぐに立っている。外の風が無い。
「いま将軍は、得難い運に遭っておられる。そして、驚かせやすい機を踏んでおられる」
「驚かせやすい」
「はい」
「何をです」
「運を踏みながら撫せず、機に臨みながら発せられぬのであれば」
閻忠は、そこで一度切った。
「何をもって、大きな名を保たれますか」
言い終わって、閻忠は組んだ手をほどいた。
皇甫嵩は、湯呑に手をかけなかった。
言われたことの形は、分かる。時があり、機があり、いまがそれだという。だが、何をせよとは言っていない。
言っていないことを、こちらから言わせるのか、言わせないのかを決めなければならない。
どういうことだ、と聞いた。
閻忠は、数えはじめた。
「今年、将軍は春の終わりに鉞を受けられた」
鉞は、軍を率いる印である。節と一緒に与えられる。
「そして、冬の終わりに功を収められた。春から冬までです」
「八か月です」
「八か月でございます」
閻忠は、続けた。
「兵の動くことは神のごとく、謀は二度考えるまでもなかった。強い者を摧くのは、枯れ枝を折るより易く、堅い者を消すのは、湯が雪を消すより速かった」
言葉が、並べてある。
並べてあるものを、皇甫嵩は一つずつ自分の記憶と突き合わせた。枯れ枝を折るより易かったか。易くはなかった。広宗で三日、押し返されている。
だが、外から見ればそう見えるのだろう。
外から見た形を、この男は正確に持っている。
「ひと月のあいだに、神の兵が電のように掃いた」
閻忠は、そこで少し声を落とした。
「屍を封じ、石に刻み、南に向かって報じられた」
皇甫嵩は、灯のほうを見た。
芯が伸びている。伸びると炎が細く高くなり、揺れやすくなる。誰も切りに来ない。外で、まだ人の歩く音がしている。
「威徳は朝廷を震わせ、名は海の外まで届きました」
閻忠は、そこから声を戻した。
「いま将軍は、賞しきれぬ功を建てておられる。そして、人に勝る徳を兼ねておられる」
一つ、息を入れた。
「それでいて、庸主に北面しておられる。どうして、安らかでいられましょうか」
北面というのは、臣下が君主に向かう向きのことである。
その逆が何かは、言われなくても分かる。
屍を封じ、石に刻む。――あれを、そう呼ぶ者がいる。
皇甫嵩は、人を下がらせた。
取次の者が、戸の内側に控えている。手を挙げて、出るように示した。出ていく足音が、廊下の端まで行って、消えた。
部屋に二人になった。
それから答えた。
「朝早くから夜まで、公にあります」
閻忠は、動かない。
「心は、忠を忘れておりません」
言ってから、一つ置いた。
「何の故に、安からざらんや」
言い終わって、湯呑を持ち上げた。
持ち上げて、口をつけずに戻した。まだ熱い。
閻忠は、返さなかった。返さずに、皇甫嵩の顔を見ていた。見て、何かを測っている顔だった。
足したいことは、一つも浮かばなかった。
灯を替えさせようとして、やめた。
人を呼べば、また人が入る。
立って、自分で芯を切った。切ると、炎が低く太くなった。部屋の隅が、少し暗くなる。
座り直したとき、閻忠が口を開いた。
「そうではございません」
皇甫嵩は、座り直した手を膝に置いた。
「昔、韓信という将がおりました」
「漢を興した将ですね」
「さようです。高祖に従って、斉を取り、楚を破った男でございます」
閻忠は、ゆっくり言った。
「その韓信に、天下を三つに分けよと勧めた者がおりました。高祖と項羽と、そして自分と、三つに」
「勧めたのは、誰です」
「蒯通と申す者です。弁の立つ男でございました」
「韓信は」
「断りました」
閻忠は、そこで間を置いた。
「断った理由が、一つございます。高祖に、食事を一度、恵まれたことがある。その恩が忘れられなかった。一杯の食事です」
「それで」
「三つに分ける業を、棄てました」
皇甫嵩は、黙っていた。
「そのあと、韓信がどうなったかは、将軍もご存じでしょう」
知っている。
「鋭い剣が、すでに胸を刺すに及んで、なお、その計に気づかなかった。気づいたときには、もう」
閻忠は、言い切らなかった。言い切らずに、次へ移った。
「いま、主上の勢いは、劉邦や項羽より弱うございます。そして将軍の権は、淮陰侯より重い」
「淮陰侯」
「韓信のことでございます。淮陰に封ぜられました」
閻忠の声が、少し速くなった。
「指し示されれば、西楚を収めるに足ります。袂を投げられれば、漢の祚を興すに足ります」
皇甫嵩の手が、膝の上で止まっていた。
止まっていることに、自分で気づいた。
韓信は、そのあとどうなったか。




