↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第八章 閻忠(えんちゅう)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/29

第2話:信都から

 取次の者が来た。

 会いたいという者がいる、という。

 名を訊いた。


「閻忠(えんちゅう)と申します。もと信都(しんと)の令であったと」


 信都は、この州の県である。鉅鹿郡の東、安平国にある。令は、県を預かる役だった。

 もと、ということは、いまは役に就いていない。


「どこの生まれですか」

「漢陽(かんよう)と申しております」


 涼州である。

 皇甫嵩の郷里は安定郡で、漢陽はその南にあたる。同じ州の中で、二つ離れた郡になる。

 役を退いた男が、涼州から冀州へ来たのか、この州のどこかに住み続けていたのかは、取次の言葉では分からない。

 用件を訊かせた。

 将軍に申し上げたいことがある、とだけ答えたという。


「何を申し上げたいのかは」

「それは、直に、と」


 通してよいかを、取次の者が訊いている。

 断ることはできる。役に就いていない者が、用件も言わずに州牧に会いたいと言う。断っても、誰も咎めない。

 通すことにした。

 なぜ通したのかを、自分でも決めていなかった。

 取次の者が、もう一つ訊いた。


「腰の物は、いかがいたしましょう」

「常のとおりに」


 常のとおりというのは、預からせる、という意味である。

 しばらくして、通ってきた。

 五十を越えている。背は高くない。冬の道を来た者の足元をしていた。

 皇甫嵩は、その腰を見た。


 閻忠は、腰の物を預けなかった。




 部屋に通した。

 冬の夜のはじめである。灯を一つ、机の上に置かせた。湯を出させた。

 閻忠は、湯を持たなかった。

 座って、膝の上で手を組んで、しばらく黙っていた。それから話しはじめた。


「得難くして失い易きものを、時と申します」


 皇甫嵩は、聞いた。


「時が至って、踵をめぐらさぬことを、機と申します。聖人は常に時に順って動き、智者は必ず機によって発します」


 湯気が、机の上で真っ直ぐに立っている。外の風が無い。


「いま将軍は、得難い運に遭っておられる。そして、驚かせやすい機を踏んでおられる」

「驚かせやすい」

「はい」

「何をです」

「運を踏みながら撫せず、機に臨みながら発せられぬのであれば」


 閻忠は、そこで一度切った。


「何をもって、大きな名を保たれますか」


 言い終わって、閻忠は組んだ手をほどいた。

 皇甫嵩は、湯呑に手をかけなかった。

 言われたことの形は、分かる。時があり、機があり、いまがそれだという。だが、何をせよとは言っていない。

 言っていないことを、こちらから言わせるのか、言わせないのかを決めなければならない。


 どういうことだ、と聞いた。




 閻忠は、数えはじめた。


「今年、将軍は春の終わりに鉞(まさかり)を受けられた」


 鉞は、軍を率いる印である。節と一緒に与えられる。


「そして、冬の終わりに功を収められた。春から冬までです」

「八か月です」

「八か月でございます」


 閻忠は、続けた。


「兵の動くことは神のごとく、謀は二度考えるまでもなかった。強い者を摧くのは、枯れ枝を折るより易く、堅い者を消すのは、湯が雪を消すより速かった」


 言葉が、並べてある。

 並べてあるものを、皇甫嵩は一つずつ自分の記憶と突き合わせた。枯れ枝を折るより易かったか。易くはなかった。広宗で三日、押し返されている。

 だが、外から見ればそう見えるのだろう。

 外から見た形を、この男は正確に持っている。


「ひと月のあいだに、神の兵が電のように掃いた」


 閻忠は、そこで少し声を落とした。


「屍(しかばね)を封じ、石に刻み、南に向かって報じられた」


 皇甫嵩は、灯のほうを見た。

 芯が伸びている。伸びると炎が細く高くなり、揺れやすくなる。誰も切りに来ない。外で、まだ人の歩く音がしている。


「威徳は朝廷を震わせ、名は海の外まで届きました」


 閻忠は、そこから声を戻した。


「いま将軍は、賞しきれぬ功を建てておられる。そして、人に勝る徳を兼ねておられる」


 一つ、息を入れた。


「それでいて、庸主に北面しておられる。どうして、安らかでいられましょうか」


 北面というのは、臣下が君主に向かう向きのことである。

 その逆が何かは、言われなくても分かる。


 屍を封じ、石に刻む。――あれを、そう呼ぶ者がいる。




 皇甫嵩は、人を下がらせた。

 取次の者が、戸の内側に控えている。手を挙げて、出るように示した。出ていく足音が、廊下の端まで行って、消えた。

 部屋に二人になった。

 それから答えた。


「朝早くから夜まで、公にあります」


 閻忠は、動かない。


「心は、忠を忘れておりません」


 言ってから、一つ置いた。


「何の故に、安からざらんや」


 言い終わって、湯呑を持ち上げた。

 持ち上げて、口をつけずに戻した。まだ熱い。

 閻忠は、返さなかった。返さずに、皇甫嵩の顔を見ていた。見て、何かを測っている顔だった。


 足したいことは、一つも浮かばなかった。




 灯を替えさせようとして、やめた。

 人を呼べば、また人が入る。

 立って、自分で芯を切った。切ると、炎が低く太くなった。部屋の隅が、少し暗くなる。

 座り直したとき、閻忠が口を開いた。


「そうではございません」


 皇甫嵩は、座り直した手を膝に置いた。


「昔、韓信(かんしん)という将がおりました」

「漢を興した将ですね」

「さようです。高祖に従って、斉を取り、楚を破った男でございます」


 閻忠は、ゆっくり言った。


「その韓信に、天下を三つに分けよと勧めた者がおりました。高祖と項羽と、そして自分と、三つに」

「勧めたのは、誰です」

「蒯通(かいつう)と申す者です。弁の立つ男でございました」

「韓信は」

「断りました」


 閻忠は、そこで間を置いた。


「断った理由が、一つございます。高祖に、食事を一度、恵まれたことがある。その恩が忘れられなかった。一杯の食事です」

「それで」

「三つに分ける業を、棄てました」


 皇甫嵩は、黙っていた。


「そのあと、韓信がどうなったかは、将軍もご存じでしょう」


 知っている。


「鋭い剣が、すでに胸を刺すに及んで、なお、その計に気づかなかった。気づいたときには、もう」


 閻忠は、言い切らなかった。言い切らずに、次へ移った。


「いま、主上の勢いは、劉邦や項羽より弱うございます。そして将軍の権は、淮陰侯(わいいんこう)より重い」

「淮陰侯」

「韓信のことでございます。淮陰に封ぜられました」


 閻忠の声が、少し速くなった。


「指し示されれば、西楚を収めるに足ります。袂を投げられれば、漢の祚を興すに足ります」


 皇甫嵩の手が、膝の上で止まっていた。

 止まっていることに、自分で気づいた。


 韓信は、そのあとどうなったか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。