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三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第七章 京観(けいかん)

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第1話:陽翟(ようたく)

 ――光和七年(一八四年)六月、豫州潁川郡陽翟(よしゅうえいせんぐんようたく)。


 追った。

 長社で崩れた者たちは、三つの方へ散った。北へ抜けた分は、数が少ない。西へ行った分は、途中で止まった。多いのは、南である。

 皇甫嵩(こうほすう)は、南を追うことにした。

 追う前に、線を引いた。

 どこまで追うか、である。

 追いすぎると、こちらが伸びる。伸びたところを横から切られると、追っている側が追われる側になる。長社の外で、崩れた者がそうなったのを見たばかりだった。

 線は、川で引いた。

 潁川の南に、汝南(じょなん)がある。その東に陳国(ちんこく)がある。三つとも、川が違う。

 潁水を越えると、水の色が変わった。

 長社のあたりの水は、土の色をしている。南へ下ると、それが濃くなる。汝南の水は、掬って日に透かすと、赤みがある。土が違うのだと、この土地の出の兵が言った。

 陽翟で、波才(はさい)に追いついた。

 追いついたというより、待っていた形になっていた。城の外に集まっているのを、囲んで撃った。囲みが閉じる前に抜けた分もある。抜けた分は、追わなかった。線の外だった。

 西華(せいか)では、彭脱(ほうだつ)を撃った。

 こちらは早かった。陣が組まれる前に当たったので、組まれないまま終わった。

 残りは、降るか、散るかした。

 降った者は、名を書かせた。散った者は、書かせようがない。

 三つの郡が、平らいだ。

 月が変わるころ、皇甫嵩は、引いた線の南の端まで行ってみた。

 川がある。向こう岸に、人が立っていない。


 途中から、逃げる相手がいなくなっていた。




 書を出す。

 三つの郡が平らいだという報せを、朝廷へ上げる。形は決まっている。何をしたかを書き、誰がしたかを書く。

 吏を呼んだ。

 三郡平定の状を書かせ、皇甫嵩は、書き上がったものを見た。

 欄が二つある。

 上の欄は、この戦を率いた者の名を書く。下の欄は、ともに当たった者の名を書く。

 上の欄に、皇甫嵩の名が入っていた。

 下の欄に、右中郎将の朱儁(しゅしゅん)の名が入っていた。


「入れ替えてください」

「入れ替える、と申しますと」

「上を朱儁どのに。下を、空けておいてください」


 吏は、筆を持ったまま動かなかった。


「下も、書かぬのでございますか」

「書かないでください」

「理由の欄がございますが」

「ありません。これは戦の状で、辞令の状ではない」


 吏は、書き直した。

 書き直した紙を、皇甫嵩はもう一度見た。上に朱儁、下は白い。白いところは、見ると目につく。

 封をして、出した。

 返事は、ひと月足らずで来た。

 朱儁を西郷侯に進め、鎮賊中郎将(ちんぞくちゅうろうしょう)に遷す、とある。賊を鎮める、という名の官である。

 報せが回ってきた日、朱儁は陣の外で馬の脚を見ていた。皇甫嵩が行くと、顔を上げた。


「聞きました」

「それは、よかった」

「四月に、私は負けております」

「知っています」


 朱儁は、それ以上は言わなかった。馬の脚に手を戻した。


 朱儁は、礼を言わなかった。




 ――光和七年(一八四年)八月、東郡(とうぐん)倉亭(そうてい)。


 東郡へ回れという詔が来た。

 東郡の黄巾(こうきん)は、卜巳(ぼくし)という者が率いている。ほかに張伯(ちょうはく)、梁仲寧(りょうちゅうねい)という名も、報せに並んでいた。

 倉亭で当たった。

 戦そのものは、長くなかった。陣の後ろに川があり、下がる先が無かったからである。

 首は、七千余だった。

 そして、卜巳が生きたまま縛られて、皇甫嵩の前に置かれた。

 中年の男である。痩せてはいない。肩の肉が落ちていない。

 卜巳は、顔を上げて、最初に水を求めた。


「水を」


 与えさせた。

 飲み終わると、息をついた。


「礼を言います」

「訊きたいことがあります」

「どうぞ」

「この戦の前に、何をしていましたか」


 卜巳は、しばらく考えた。考えてから答えた。


「符を焼いておりました」

「符」

「紙に字を書いて、焼いて、水に溶かして飲ませます。病の者に」

「効きますか」

「効いた者がおります。効かなかった者もおります」

「割合は」

「数えたことがありません」


 皇甫嵩は、そこで黙った。

 数えたことがない、という答えを、この男は恥じていなかった。恥じていないというより、数えるという発想が無い顔をしていた。


「東郡で、何人を集めましたか」

「集めてはおりません。来たのです」

「何人来ましたか」

「それも、数えておりません」


 七千余という数は、こちらが数えた数である。向こうは数えていない。

 同じ場所で死んだ者の数を、一方だけが知っている。


「もう一つ、よろしいですか」


 卜巳が言った。


「こちらから訊いても」

「どうぞ」

「符が効かなかった者は、なぜ効かなかったのだと、将軍はお考えですか」


 皇甫嵩は、口を開かなかった。

 効くはずがない、と言うことはできる。だがこの男は、効いた者がいると言った。効いた者がいるという話と、効くはずがないという話は、同じ場所では噛み合わない。

 卜巳は、待っていた。

 待って、待たなくなった。


 卜巳が最後に聞いたことに、答えられなかった。


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