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三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第六章 長社(ちょうしゃ)の火

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第3話:鼓

 鼓を打たせた。

 門を開ける。三つの門を同時に開けた。兵が出る。

 皇甫嵩も、馬に乗って出た。

 出て、すぐに分かった。

 こちらから行くまでもない。向こうが、来ている。

 火に追われた者たちが、北へ走ってくる。北は、城のある側である。火から逃げれば、城に向かうことになる。

 走ってくる者たちの顔が、燎の明かりで見えた。

 近いと、よく見える。

 頭の布が取れている者がいる。取れていない者もいる。布があってもなくても、顔は同じだった。

 手に何も持っていない者がいた。

 多い。走りながら捨てたのだと分かった。刃を持っていては走れない。重さが先のほうに無い刃でも、持てば走りにくい。

 兵は、それを斬った。

 斬る、という動きは、こちらが止まっていて、向こうが走ってくると、ほとんど何もしなくてよい。刃を出しておけば、当たる。

 四方から兵が出ているので、走る先が無い。

 北へ行けば兵がいる。南へ戻れば火がある。東と西にも兵がいる。

 皇甫嵩は、馬の上にいた。

 鼓を打てと言った。門を開けろと言った。出ろと言った。


 斬れ、とは言わなかった。言わなくても、斬っていた。




 東から、馬の音が来た。

 まとまった音である。走っている。数は多くない。

 皇甫嵩は、馬を止めて、そちらを見た。

 黄巾ではない。列が崩れていない。

 旗が見えた。近づいてくる。近づいてから、官軍のものだと分かった。

 先頭の者が、馬を寄せてきて、降りた。

 若い。三十には届いていないように見えた。背は高くない。

 馬が、荒い息をしている。首のあたりが濡れて、光っていた。長く走ってきた馬の息である。一日か、二日か、それ以上か。

 その男は、降りると、まず頭を下げた。


「騎都尉(きとい)の曹操(そうそう)と申します」

「騎都尉」

「はい。都の騎兵を預かる官でございます。中郎将(ちゅうろうしょう)より下です」


 訊いてもいないことを言った。

 皇甫嵩は、それを聞いて、自分が階級の話を訊いたように聞こえたかと思った。


「遣わされましたか」

「詔を受けて参りました」


 それだけ訊いた。

 どこから来たのか、誰の兵で来たのか、途中で何を見たのかは、訊かなかった。訊いている時間ではない。

 原では、まだ斬っている。

 曹操は、馬に手をかけたまま、原のほうを見た。見ているあいだに、手綱を持ち直した。

 皇甫嵩は、東の側を指した。


「そちらから回ってください。逃げているのが、まだ東へ抜けます」

「承知しました」


 曹操は乗った。乗るのが速かった。

 行った。


 この男は、なぜ今夜、ここにいるのか。




 朱儁(しゅしゅん)が来た。

 夜中である。

 朱儁の軍は、四月に波才に敗れて退いていた。退いた先から、こちらへ寄せてきたのだろう。

 馬から降りて、皇甫嵩の前に立った。


「皇甫どの」

「朱どの」

「間に合いましたか」

「まだ終わりません」


 それだけだった。

 四月のことを、朱儁は言わなかった。皇甫嵩も訊かなかった。

 朱儁は、原のほうへ歩いていって、焼けた縁のところで足を止めた。

 戻ってきて、地面に指で引いた。


「私の兵は、ここから入ります。南の焼けたところは踏めません。まだ熱い」

「東は」

「まだ見ておりません」

「騎都尉が一隊で回っています。東から来た者です」

「では、私は西から入ります」

「南の縁は、こちらが押さえます」


 三つの軍の位置が、それで決まった。

 皇甫嵩は城の北から南へ押し、曹操は東から西へ回り、朱儁は西から入って、焼け跡の縁で止まる。

 止まる線を決めたのは、味方どうしがぶつかるからである。暗い原で、こちらから走ってくる者と、向こうから走ってくる者を、見分ける手立てが無い。

 線は、一本の畦にした。畦なら、夜でも足で分かる。

 更に戦った。

 夜通しである。

 払暁まで続いた。続いたというより、斬るものが無くなるまで続いた。

 数えはじめたのは、まだ暗いうちだった。

 一つずつ数えた。吏が二人ついて、指を折る。

 三百を過ぎたあたりで、追いつかなくなった。

 数え方を変えた。

 頭の布で数えることにした。

 布は、ほとんどが外れて落ちている。走れば落ちる。斬られれば落ちる。落ちたものを集めて、束にする。一束が百である。

 束は、積み上げていった。

 積みながら、吏の一人が言った。布は一人に一つとは限らない、と。巻いていない者もいる。二つ持っている者もいる。

 皇甫嵩は、それでよいと言った。

 言ってから、束の山を見た。

 布は、色が揃っていない。染め方が違う。同じ黄でも、濃いものと薄いものがあり、薄いものは元が何色だったか分かるものもあった。


 途中で、数え方を変えた。




 夜が明けた。

 原は、黒い。

 草は無い。根だけが残って、短く立っている。踏むと、砕けた。

 皇甫嵩は、馬を降りて、歩いた。

 南の端から、北の端まで歩くことにした。馬でなら、すぐに着く。歩いて、日が高くなった。

 灰が動いていた。

 風はまだ南から吹いている。灰は、乾いていて軽い。吹かれて、地の上を流れる。流れて、倒れている者のところで止まる。止まって、溜まる。

 歩いていると、その溜まりが、少しずつ高くなっていくのが分かった。

 一つの溜まりの前で、立ち止まった。立ち止まっているあいだにも、灰は来ていた。来て、足の甲の上に乗る。払うと、また乗る。

 払うのをやめた。

 やめて、しばらく立っていた。そのあいだに、灰は履の縫い目まで埋めた。

 歩き出すと、足が重かった。重いのは灰ではない。灰は軽い。

 倒れている者は、焼けている者と、焼けていない者があった。

 焼けていない者は、北のほうに多い。火より速く走って、斬られた者である。

 その一人の頭に、布が残っていた。

 風が、端をめくった。

 めくれて、顔が見えた。

 女だった。

 年は分からない。四十を過ぎているようにも、そうでないようにも見えた。手を見た。指の節が太い。爪が短い。土を扱う者の手である。

 風が落ちて、布が顔に戻った。

 皇甫嵩は、そのまま歩いた。

 北の端まで来て、振り返った。

 黒い原が、南の端まで見えた。ところどころ、まだ煙が細く立っている。

 根が残っている。根の並び方を見た。

 並んでいる。

 ばらばらではない。筋がある。畝の筋である。


 この原に、去年は何が植わっていたのか。




 文が届いたのは、それから数日後である。

 都から来た。

 都郷侯(ときょうこう)に封ずる、とあった。郷を一つ、食邑にもらう。そこから上がる租が、この家のものになる。

 印綬が一緒に来た。

 箱に入っている。箱は、思ったより小さい。両手で持てる。開けると、印と、印を吊るすための組紐が入っていた。

 皇甫嵩は、印を出して、手の上に置いた。

 重さがある。

 四十八年目の年に、もらうものをもらったのは、これがはじめてである。

 節(せつ)は、預かったものだった。あれは戦が終われば返す。中郎将も、軍が解ければ解ける。

 これは違う。

 郷は、土地である。土地は返さない。

 箱を閉じた。

 閉じてから、蓋の上に手を置いたまま、しばらくそうしていた。

 外に出た。

 城の北の壁に上がると、原が見えた。

 黒いままである。数日経っても、新しい草は出ていない。根も、あのままだった。


 箱が届いた日、焼けた原に、まだ煙が立っていた。



第六章 長社の火 ――完。


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