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三国志正史 ―皇甫嵩伝―  作者: ソリトん
第六章 長社(ちょうしゃ)の火

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第2話:待つ

 風が来ない。

 一日目。南から、弱い。

 二日目。無し。

 三日目。南から、弱い。

 皇甫嵩は、毎朝、布を掲げて、帳面に書いた。書いたあと、壁を下りる。下りて、その日は何もしない。

 何もしないことを、兵に命じている。

 これが、いちばん難しかった。

 兵を動かさないというのは、放っておくことではない。動きたくなる者を止め続けることである。

 止めるには、するべきことを与えなければならない。だが、与えすぎると、それが戦の支度に見える。戦の支度に見えると、囲んでいる側から見える。見えれば、向こうも備える。

 だから、毎日、同じことをさせた。

 朝に壁の見回り。昼に武器の手入れ。夕に水の汲み上げ。それを三日、同じ順でやらせた。

 二日目から、城の中の音が減った。

 三日目には、ほとんど無くなった。

 減ったのは、恐れているからではない。同じことを同じ順でやらせているので、誰も迷わないからである。迷わなければ、訊かない。訊かなければ、声が出ない。

 夜、壁に上がった。

 囲みの火が、原のあちこちに点いている。夜ごとに数が増えていた。増えているのは、囲みが厚くなったからではない。五月でも、夜は冷える。

 城の中を振り返った。

 この城には、犬がいた。囲まれる前から住んでいる犬である。夜になると鳴いた。囲まれてからは、もっと鳴いた。


 三日目の夜、犬が鳴かなくなった。




 麻(ま)は、北地から連れてこられた数十人の一人だった。

 太守が召されて都へ行き、そのあとで郡から兵を出すことになった。郡の吏のうち、字の書ける者と、羌の言葉が分かる者が選ばれた。麻は後者である。

 潁川に羌はいない。

 だから、この地で麻にできることは無かった。荷を運び、水を汲み、言われたことをする。それだけである。

 その夕方、風が出た。

 強い風だった。城の中の物が、いっせいに音を立てた。布が鳴り、戸が鳴り、旗が鳴った。

 まもなく、命令が回ってきた。

 苣(たいまつ)を束ねよ、という。

 苣は、葦か藁を束ねて松脂を塗ったものである。火を点けて掲げる。松明より大きく、長く燃える。

 城の中の者が、全員出された。

 束ねる。縛る。松脂を塗る。塗ったものを、壁の下へ運ぶ。運んだものを、壁の上へ上げる。

 麻は、束ねる側に入れられた。

 誰も口をきかない。

 命令が「苣を束ねよ」だけだったからである。何に使うのかは、言われていない。言われていないが、この夕方の風と、外の草と、苣の三つが並べば、分かる。

 分かるが、口に出す者がいない。

 口に出せば、それは決まったことになる。決まったことになれば、外に洩れるかもしれない。洩れる道筋が、この城に無いとは言えない。

 だから、誰も言わない。

 麻は、両手を使って束を絞った。

 絞ると、松脂が指のあいだに入る。入ると、なかなか取れない。水では落ちない。砂で擦っても、爪のまわりに残る。

 日が落ちるころ、壁の上に苣が並んだ。

 何千本あるかは、数えている者がいた。

 麻は、数えていない。ただ、自分が何本束ねたかは覚えている。


 手についた松脂が、洗っても取れない。




 鋭士(えいし)を出す。

 選りすぐった者、という意味である。城の中から、足の速い者と、暗いところで方角を失わない者を選んだ。

 数を決めた。

 順を決めた。三つの組に分け、一組ずつ間を置いて出す。まとめて出すと、音が一度になる。

 出す穴を決めた。

 門は開けない。北の壁の下に、水を抜くための口がある。人が一人ずつ、這って出られる。普段は格子が嵌めてあるので、外すのに手間がかかった。

 皇甫嵩は、口の前に立って、出ていく者を一人ずつ見た。

 名は呼ばなかった。

 呼べば、答える。答えれば、声になる。声は、壁の外まで届く。

 だから、肩に手を置いた。置いて、離した。それを、出ていく者の数だけ繰り返した。

 置いた肩は、どれも厚くなかった。

 最後の一人が入ったあと、口に土嚢を寄せた。外せるように、積み方を決めてある。

 紙を二枚、用意させた。

 一枚に、出ていった数を書いた。

 もう一枚は、白いままである。帰ってきた数を、そこに書く。

 二枚を別々に持たせた。同じ紙に書くと、書いた者が引き算をする。引き算をした数を、誰かが口に出す。


 出ていった者たちの足音が、しばらく聞こえていた。




 待った。

 壁の上に、苣を持った兵が並んでいる。火はまだ点けていない。点ければ、外から見える。

 風は、南から北へ吹いていた。夕方より強くなっている。

 皇甫嵩は、北の壁の上にいた。

 原は暗い。囲みの火が点々と見えるだけである。

 どれくらい経ったかは、数えていない。数えるより、見ているほうがよかった。

 原の南の端に、光が出た。

 点である。小さい。

 次に、その隣に出た。少し離れて、もう一つ出た。三つが、ほとんど同時だった。

 点は、すぐに線になった。

 線になると、動きはじめた。南から北へ、風と同じ向きに動く。動くというより、伸びる。伸びる先の草が、まだ燃えていないのに、光っている。

 声が来た。

 人の声である。何を言っているかは分からない。ただ、多い。多くて、揃っていない。鋭士が大呼しているのだと分かった。

 皇甫嵩は、手を挙げた。

 壁の上で、火が点いた。

 一つ点くと、隣が点く。隣が点くと、その隣が点く。壁の端から端へ、順に点いていった。燎(かがりび)である。放った火に、城が応じる。

 壁の上が明るくなった。

 明るくなったので、原が見えた。

 草は、原の三分の一まで燃えている。燃えているところと燃えていないところの境が、見えた。境は、真っ直ぐではない。速く進むところと、遅れるところがある。遅れているのは、営の建っていたあたりだった。踏まれて草が寝ているので、火の通りが悪い。

 熱が来た。

 壁の上まで届いた。顔に当たる。息を吸うと、喉の奥が乾く。

 皇甫嵩は、境の動く速さを見た。

 三日、風を測った。草の乾き方も、手で確かめた。どれくらいで原を渡るかは、見積もってあった。


 火は、思っていたより速かった。


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