第2話:待つ
風が来ない。
一日目。南から、弱い。
二日目。無し。
三日目。南から、弱い。
皇甫嵩は、毎朝、布を掲げて、帳面に書いた。書いたあと、壁を下りる。下りて、その日は何もしない。
何もしないことを、兵に命じている。
これが、いちばん難しかった。
兵を動かさないというのは、放っておくことではない。動きたくなる者を止め続けることである。
止めるには、するべきことを与えなければならない。だが、与えすぎると、それが戦の支度に見える。戦の支度に見えると、囲んでいる側から見える。見えれば、向こうも備える。
だから、毎日、同じことをさせた。
朝に壁の見回り。昼に武器の手入れ。夕に水の汲み上げ。それを三日、同じ順でやらせた。
二日目から、城の中の音が減った。
三日目には、ほとんど無くなった。
減ったのは、恐れているからではない。同じことを同じ順でやらせているので、誰も迷わないからである。迷わなければ、訊かない。訊かなければ、声が出ない。
夜、壁に上がった。
囲みの火が、原のあちこちに点いている。夜ごとに数が増えていた。増えているのは、囲みが厚くなったからではない。五月でも、夜は冷える。
城の中を振り返った。
この城には、犬がいた。囲まれる前から住んでいる犬である。夜になると鳴いた。囲まれてからは、もっと鳴いた。
三日目の夜、犬が鳴かなくなった。
麻は、北地から連れてこられた数十人の一人だった。
太守が召されて都へ行き、そのあとで郡から兵を出すことになった。郡の吏のうち、字の書ける者と、羌の言葉が分かる者が選ばれた。麻は後者である。
潁川に羌はいない。
だから、この地で麻にできることは無かった。荷を運び、水を汲み、言われたことをする。それだけである。
その夕方、風が出た。
強い風だった。城の中の物が、いっせいに音を立てた。布が鳴り、戸が鳴り、旗が鳴った。
まもなく、命令が回ってきた。
苣を束ねよ、という。
苣は、葦か藁を束ねて松脂を塗ったものである。火を点けて掲げる。松明より大きく、長く燃える。
城の中の者が、全員出された。
束ねる。縛る。松脂を塗る。塗ったものを、壁の下へ運ぶ。運んだものを、壁の上へ上げる。
麻は、束ねる側に入れられた。
誰も口をきかない。
命令が「苣を束ねよ」だけだったからである。何に使うのかは、言われていない。言われていないが、この夕方の風と、外の草と、苣の三つが並べば、分かる。
分かるが、口に出す者がいない。
口に出せば、それは決まったことになる。決まったことになれば、外に洩れるかもしれない。洩れる道筋が、この城に無いとは言えない。
だから、誰も言わない。
麻は、両手を使って束を絞った。
絞ると、松脂が指のあいだに入る。入ると、なかなか取れない。水では落ちない。砂で擦っても、爪のまわりに残る。
日が落ちるころ、壁の上に苣が並んだ。
何千本あるかは、数えている者がいた。
麻は、数えていない。ただ、自分が何本束ねたかは覚えている。
手についた松脂が、洗っても取れない。
鋭士を出す。
選りすぐった者、という意味である。城の中から、足の速い者と、暗いところで方角を失わない者を選んだ。
数を決めた。
順を決めた。三つの組に分け、一組ずつ間を置いて出す。まとめて出すと、音が一度になる。
出す穴を決めた。
門は開けない。北の壁の下に、水を抜くための口がある。人が一人ずつ、這って出られる。普段は格子が嵌めてあるので、外すのに手間がかかった。
皇甫嵩は、口の前に立って、出ていく者を一人ずつ見た。
名は呼ばなかった。
呼べば、答える。答えれば、声になる。声は、壁の外まで届く。
だから、肩に手を置いた。置いて、離した。それを、出ていく者の数だけ繰り返した。
置いた肩は、どれも厚くなかった。
最後の一人が入ったあと、口に土嚢を寄せた。外せるように、積み方を決めてある。
紙を二枚、用意させた。
一枚に、出ていった数を書いた。
もう一枚は、白いままである。帰ってきた数を、そこに書く。
二枚を別々に持たせた。同じ紙に書くと、書いた者が引き算をする。引き算をした数を、誰かが口に出す。
出ていった者たちの足音が、しばらく聞こえていた。
待った。
壁の上に、苣を持った兵が並んでいる。火はまだ点けていない。点ければ、外から見える。
風は、南から北へ吹いていた。夕方より強くなっている。
皇甫嵩は、北の壁の上にいた。
原は暗い。囲みの火が点々と見えるだけである。
どれくらい経ったかは、数えていない。数えるより、見ているほうがよかった。
原の南の端に、光が出た。
点である。小さい。
次に、その隣に出た。少し離れて、もう一つ出た。三つが、ほとんど同時だった。
点は、すぐに線になった。
線になると、動きはじめた。南から北へ、風と同じ向きに動く。動くというより、伸びる。伸びる先の草が、まだ燃えていないのに、光っている。
声が来た。
人の声である。何を言っているかは分からない。ただ、多い。多くて、揃っていない。鋭士が大呼しているのだと分かった。
皇甫嵩は、手を挙げた。
壁の上で、火が点いた。
一つ点くと、隣が点く。隣が点くと、その隣が点く。壁の端から端へ、順に点いていった。燎である。放った火に、城が応じる。
壁の上が明るくなった。
明るくなったので、原が見えた。
草は、原の三分の一まで燃えている。燃えているところと燃えていないところの境が、見えた。境は、真っ直ぐではない。速く進むところと、遅れるところがある。遅れているのは、営の建っていたあたりだった。踏まれて草が寝ているので、火の通りが悪い。
熱が来た。
壁の上まで届いた。顔に当たる。息を吸うと、喉の奥が乾く。
皇甫嵩は、境の動く速さを見た。
三日、風を測った。草の乾き方も、手で確かめた。どれくらいで原を渡るかは、見積もってあった。
火は、思っていたより速かった。




