第1話:密告
――光和七年(一八四年)正月、北地郡富平。
都で千余人が誅された、という。
報せは、正月の半ばに着いた。
馬元義という者が、車で裂かれたとある。車裂きは、手足を別々の車に繋いで引く刑である。北地郡では、皇甫嵩の代になってから一度も出していない。
弟子の唐周という者が、密告したのだという。
密告の中身が、触れ書きに書いてあった。
三月五日に、八つの州で一斉に起こす約束だったという。都でも、内から呼応する手はずになっていた。
中常侍のうち二人が、その約束に入っていたと書いてある。
皇甫嵩は、そこを二度読んだ。
帝の身の回りにいて、詔を取り次ぐ者たちである。二十五年前、同じ日に五人が侯に封ぜられ、五人分の封が北地郡の戸の数より多かった。六年前には、官が銭で売りに出された。
その中の二人が、内から門を開ける約束をしていた。
属官を呼んで、触れ書きを綴じさせた。
「郡でも、調べますか」
「何をですか」
「これに連なる者を」
「名が挙がっておりません」
触れ書きには、千余人の名が無かった。誅されたとだけ書いてある。
調べようがない。調べる相手が書いていない。
皇甫嵩は、暦を出した。
正月の半ばである。
三月五日は、まだ一月も先だった。
――光和七年(一八四年)二月、北地郡富平。
張角が挙兵した。
二月である。三月五日より、一月早い。
三十六方が、同じ日に起こった。方というのは、太平道が人を分けた組のことで、大きい方は一万余、小さい方は六、七千いるという。八つの州で、同じ日に立った。
京城の門にも、州郡の官府にも、白い土で同じ字が書かれていたという。
――蒼天已に死す、黄天当に立つべし。
歳は甲子に在り、天下大吉。
皇甫嵩は、その八字を触れ書きから写した。
写しながら、書いた者の手のことを考えた。
八つの州の、いくつもの門に、同じ字を書いた。書いた者は一人ではない。同じ字を、同じ形で書けるように、誰かが教えている。
白い土で書くのは、消せるからではない。消えないからである。
触れ書きが、続けて来るようになった。
前は、三月に一度だった。郡へ来る文の束は、月ごとに綴じていれば足りた。
いまは、一日に三度来る。
北地郡はどうするか。
城は六つしかない。兵は多くない。西と北には羌との境がある。
黄巾の出た八つの州に、涼州は入っていない。
属官たちは、関わりないと思っている。口には出さないが、兵の置き方を訊いても、答えが遅い。
「涼州は、入っておりません」
「入っていません」
「では、いま動かす理由が」
「ございませんか」
「ございません」
皇甫嵩は、郡の図を広げた。
六つの城が、南北に細長く並んでいる。北の二つは羌と近い。南の二つは馮翊へ抜ける道に面している。
黄巾が来るとすれば、東からである。
だが、東から来る道は、いまのところ無い。冀州からここまでは、遠い。
羌は、西と北にいる。こちらは近い。
兵を東に置けば、西が薄くなる。西に置けば、東が空く。どちらも置かなければ、どちらも空く。
そもそも、六つの城ぜんぶに置けるだけの兵が無い。
皇甫嵩は、図の上に指を置いた。置いて、動かして、また置いた。
「太守さま」
「なんですか」
「どこを守ります」
それが問いだった。
守るべきところを決めるというのは、守らないところを決めるということである。守らないと決めた城にも、人が住んでいる。十四年前に、自分で数えた。
どこを守れば、この郡を守ったことになるのか。
――光和七年(一八四年)三月、洛陽。
召されたのは、二月の末だった。
左中郎将を拝す、とある。
中郎将は、宮中の郎を率いる官である。だが、この場合は違った。兵を率いて出るための官だった。
洛陽に着いて、三日目に節を受けた。
節を受ける作法を、先に教わった。
立つ位置。膝の折り方。受け取る手の高さ。受け取ってから、どちらの手で支えるか。
教える者は、宮中の儀を司る役の吏だった。
「両手で受けて、右に持ち替えます」
「持ち替えるのですか」
「受けるのは両手、持つのは右でございます」
当日、そのとおりにした。
竿の先に、旄がついている。旄は牛の尾の毛を束ねたもので、三層に重ねてある。
受け取って、右に持ち替えた。
持ち替えたときに、手首に来た。
二十三年前、叔父がこれを持った。中郎将を拝し、節を持って関西の兵を監した。皇甫嵩は、そのとき郡で兵の数を書いていた。太守が三度数え直させて、三度目の数は一度目より少なかった。
節というものを、絵でしか見たことがなかった。
持っている者は、帝の代わりに人を殺してよい。軍の中で言うことを聞かない者があれば、その場で斬れる。
その意味は、教わらなくても知っている。
教わったのは、持ち方だけだった。
節は、思っていたより重かった。
詔が下りた。
公卿に、馬と弩を出させる、という。
それから、列将の子孫と、吏民のうち戦のことに明るい者を、公車へ推挙せよ、とある。
その場に、皇甫嵩もいた。
読み上げる者が、公卿の名を一つずつ呼んでいく。呼ばれた者が、出す馬の数と弩の数を言う。書く者が書く。
皇甫嵩は、数えていた。
呼ばれる順は、位の順である。上から下へ下りていく。
上のほうは、数が多い。下へ行くと減る。減り方が、位の下がり方より急だった。
途中で、同じ数を言う者が何人か続いた。相談したのだと分かった。
最後まで呼び終わって、書く者が総計を出した。
皇甫嵩は、その数を覚えた。
四万余を率いて出るのに、足りる数ではない。足りないが、集めれば無いよりはいい。
詔をもう一度、はじめから聞き直した。
公卿は出す。列将の子孫は出る。吏民も出る。
帝が何を出すとは、書いていなかった。
書いていないというのは、出さないという意味ではない。書く必要が無いという意味かもしれない。詔は帝から出るのだから、詔そのものが帝の出したものだとも言える。
皇甫嵩は、そこで考えるのをやめた。
やめて、数の控えを取った。
その詔に、帝が何を出すとは書いていなかった。




