第3話:千万
――熹平四年(一七五年)、北地郡。
五経の文を石に刻んで、太学の門の外に立てたという。
書き写されるうちに字が違ってきて、どれが正しいのか分からなくなっていたので、正しい形を決めて石に刻んだのだという。
報せには、もう一行あった。
見に来る者と、写しを取る者の車が、日に千余両。街路が塞がるほどだという。
皇甫嵩は、その数のところで手を止めた。
千余両である。
北地郡ぜんたいに、車が何両あるかを、この男は知っている。数えたからである。二年前に、郡の車と牛を数えた。合わせて三百に足りなかった。
都では、それが一日で三倍以上、一箇所に集まる。
写しを取り寄せられるかを、都への便のついでに問い合わせた。
返事は、ふた月して来た。
取り寄せられない、とあった。石は動かせない。写しは現地で取るものである。紙と墨を持っていって、石に当てて写す。誰かが行って、写して、持って帰るしかない。
郡から都までは、荷で二月かかる。
人を一人出せば、四月は戻らない。郡の吏は、その人数を出せなかった。
その石を、この郡の誰も見に行けなかった。
――熹平五年(一七六年)、北地郡。
曹鸞という太守が、上書した。
党人を赦してください、というものだったという。
殺された。
殺されただけではなかった。それを機に、禁錮の範囲が広げられた。
党人の門生。故吏。父と子。兄弟。それに連なる五族。全部が官に就けなくなる。
名簿を、作り直すことになった。
郡でもやる。誰が誰の門生であり、誰の故吏であるかを、一人ずつ調べる。
皇甫嵩は、その作業に二十日かかった。
北地郡の吏は多くない。六つの城しかない郡である。調べる相手は数えられる。
難しかったのは、門生というものの範囲だった。
塾に通っていれば門生か。束脩を出していなければどうか。一年で辞めた者はどうか。名を帳面に書かれなかった者はどうか。
書式には、そこまで書いていない。
皇甫嵩は、自分のことを一度考えた。
叔父の塾に十年通った。名は帳面にあった。その塾は十四年続いて、門徒は三百余人いた。叔父は禁錮になっていない。名簿に入れてくれと自ら書いて、問われなかった。
だから、この線には掛からない。
掛からないということを、書式のどこにも書かなくてよい。
二十日目に、名簿を仕上げた。
郡の名簿に、この郡の者の名が二つ増えた。
――熹平六年(一七七年)、北地郡。
鮮卑を討つという。
三道から出る。夏育、田晏、臧旻。各々一万騎。
北地郡からも兵を出せ、という文が来た。
出す数を数えながら、皇甫嵩は、この戦の起こりを考えていた。
鮮卑は、数年前から北の境を侵している。それは本当である。だが、侵しは去年も一昨年もあって、そのたびに討つという話にはならなかった。
今年、なぜ出るのか。
商人と一緒に、噂が来た。
田晏という将は、前に罪を得ている。免ぜられて、官に戻れないでいた。戦の功があれば、それで罪を贖える。だから、自分から戦を求めたのだという。
そして、そのために、都の誰かに銭が渡ったという。
誰に渡ったのかは、噂では言わなかった。言わないというより、言えば危ないので言わないのだと、商人の口ぶりで分かった。
皇甫嵩は、それ以上は訊かなかった。
出す兵の数を決め、名を書き、帳面に綴じた。三十六年前に、叔父が甲士八百の名を綴じるのを、墨をすりながら見ていた。名の無い者に名を付ける手続きがあった。
北地郡から出す数は、八百には遠く及ばなかった。
夜、官舎で帳面を閉じた。
罪を得た者が、戦で功を立てれば、罪が消える。
消えるというのは、無かったことになるのか、あったまま打ち消されるのか。打ち消すのなら、何と何が釣り合うのか。
罪は、戦で贖えるものなのか。
三道とも、大敗した。
返ってきた兵と馬は、十のうち一だという。
北地郡から出した者のうち、戻ったのは二人だった。
太守として、家を回った。
属官がやると言った。書式では属官の役である。皇甫嵩は、自分で回ると言った。理由は言わなかった。
六つの城を、十二日かけて回った。
家に着いて、名を言う。
受け取る側は、たいてい何も言わない。十六年前に安定郡の吏と一緒に回ったときと、同じだった。
違うのは、訊かれることだった。
「何があったのですか」
「北へ出て、負けました」
「どう負けたのですか」
皇甫嵩は、答えられなかった。
塞を出て、二千余里まで進んで、そこで囲まれたと聞いている。それだけである。どの日に、どの場所で、どういう形で崩れたのかは、郡には来ていない。
言えることは一つしかなかった。
「十人のうち、一人が帰りました」
最後の家を出たのは、日が落ちてからだった。
役所に戻って、名簿を出した。
戻らない者の名に、線を引いていく。
名は二字か三字である。線は、その上を通って、両端に少し出る。
消す線のほうが、書いた字より長かった。
――光和元年(一七八年)、北地郡。
都で官が売りに出された、という。
はじめ、皇甫嵩はそれを噂だと思った。
値段の書付が回ってきて、噂ではなくなった。
関内侯から、納める銭に差がついている。公は千万銭。卿は五百万銭。それより下も、位ごとに額が決まっている。
納めた銭は、西の園に入るという。
西の園というのを、皇甫嵩は知っていた。
九年前、洛陽の官舎の窓から西を見ると、囲いのある大きな屋敷があった。塀が高く、木が植わっていて、中は見えなかった。誰の屋敷かを訊いたら、答えた者が話を変えた。
あれが、そうだったのかもしれない。違うかもしれない。確かめる術は無い。
皇甫嵩は、郡の帳面を出した。
北地郡が一年に都へ納める額が、そこに書いてある。租と、調と、算賦を合わせた数である。
値段の書付と並べて、机に置いた。
しばらく見た。
公の値は、北地郡が納める額の、何年分かになった。何年分かは、その場で割った。割れた。
置いたまま、席を立った。
戻ってきて、また見た。
そのあと、両方とも箱に入れた。
数日して、届けが出た。
郡から都へ行く者がある、という届けである。行く理由の欄に、都合と書いてある。都合というのは、書かないという意味である。
郡から都へ行く者の届けが出た。その者は、銭を持っていく。




