第2話:条件
――建寧四年(一七一年)、北地郡。
乞が馬を降りたのは、城の門から三十歩ほど手前だった。
そこから先は歩く。決まりではない。ただ、乞はいつもそうしていた。
新しい太守が来ている、と聞いていた。
前の太守は覚えている。その前も覚えている。この十年で三人目だった。三人とも、はじめに同じことを言う。落ち着いて住め、と言う。それから、こちらの言い分を聞く。
乞は、言い分を短くすることにしていた。
長く言うと、相手は考えるふりをする。短く言えば、数だけが残る。
土間に通された。
新しい太守は、四十には見えなかった。背が高く、口を先に開かない男だった。
「話を伺います」
「粟だ」
「いくらですか」
乞は、人数を言った。
男の数と、女の数と、子の数を、別々に言った。それから、一人が冬を越すのに要る量を言い、掛け合わせた数を言った。
太守は、書き留めた。
書き留めるときに、女と子の数も書いた。
乞は、そこを見ていた。前の太守は、男の数しか書かなかった。その前の太守も、男の数しか書かなかった。帳面にそういう欄しかないのだと、あとで吏が言っていた。
「いつまでに要りますか」
「雪の前だ」
「承知しました」
乞は、それ以上は言わなかった。
前の太守も、同じことを言った。承知した、と言った。日付まで覚えている。八年前の、秋の終わりだった。
粟は、来なかった。
その次の太守も、同じことを言った。こちらも来なかった。
新しい太守は、いま、承知したと言っている。
乞は条件を言ったきり、返事を待たずに立った。
上書を書いた。
粟を請う書である。
書式が難しかった。郡から都へ物を請う文には、決まった形がある。何を、いくら、なぜ要るのかを、この順で書く。なぜの部分に、羌のことを書いてよいかどうかで迷った。
一度目に書いたものは、羌に配ると書いた。
読み返して、書き直した。羌に配ると書くと、郡の外の者に与える話になる。郡の外の者に与えるために都から粟を取るのは、筋が通らないと読まれる。
二度目は、郡の境を守るために要ると書いた。
これも書き直した。境を守るなら兵が要る、という話にすり替わる。要るのは兵ではない。粟である。
三度目に、こう書いた。
北地郡は戸三千百二十二、口一万八千六百三十七。郡の蔵にある粟では、郡の者と、郡の内に住む羌とを合わせて冬を越せない。不足はこれこれである。請う。
数だけを書いた。
書き終えてから、三十年前のことを思い出した。
叔父が布衣のまま、征西将軍の用兵は誤りであると書いて、朝廷へ上げた。読まれなかった。読まれないまま、そのとおりになった。
郡の吏に渡し、都への便に乗せた。
そのあとで、控えの棚を見に行った。
郡から出した文は、控えを取って棚に綴じる決まりである。前の太守の代の控えも、その前の代の控えも、そこにあるはずだった。
控えの棚に、前任の太守が残した控えが、一通も無かった。
――熹平元年(一七二年)、北地郡。
返事は、来なかった。
雪が近づいてきた。
皇甫嵩は、蔵の帳面を出した。
都から来ないなら、郡の中から出すしかない。郡の中から出すというのは、郡の者の分を削るということである。
削る量は、決まっている。乞が言った人数に、冬を越すのに要る量を掛けた数である。書き留めてある。
問題は、どこから出すかだった。
蔵の棚は、名目ごとに分かれている。
来年の種にする分。役所の者の食う分。普請に出る者へ渡す分。県へ回す分。備えとして動かさない分。
種を削ると、来年が減る。
役所の分を削ると、吏が辞める。辞めた者の代わりは来ない。
普請の分を削ると、水路が直らない。直らなければ、来年が減る。
県へ回す分を削ると、県が郡を信用しなくなる。
備えを削ると、備えが無くなる。
皇甫嵩は、五つの棚の前に、順に立った。
それから、備えの棚を開けた。
属官が来た。
「それは、動かさない分にございます」
「知っています」
「動かせば、記録に残ります」
「残してください」
出させた。
俵を出し、数え、帳面に書き、運び出した。運び出すのは三日かかった。
削られるのは、この郡の一万八千六百三十七人である。数えたのは自分だった。
最後の俵が出ていったあと、蔵に入った。
蔵の棚が、一段まるごと空いていた。
――熹平二年(一七三年)、北地郡。
叔父が弘農太守になったという報せが来た。
そして、壽成亭侯に封ぜられた。邑は二百戸だという。
報せには、もう一行あった。
辞退して、受けなかった。
皇甫嵩は、報せを持ってきた者に訊いた。
「壽成亭は、どこにありますか」
「さあ」
「弘農の内ですか」
「存じません」
その者は、ほんとうに知らない顔をしていた。
郡の書庫にも、そういう地名は無かった。封ぜられる亭の名は、たいてい本人の郷里か任地の近くから取る。どちらでもないらしい。
二百戸である。
北地郡は三千百二十二戸だから、その十五分の一ほどになる。
郡の書付に、一度だけ書いた。
安定の皇甫規、弘農太守に遷り、壽成亭侯に封ぜらる。辞して受けず。
書いて、しばらく置いてから、消した。
郡の書付に書くのは、この郡に関わることだけである。弘農は関係が無い。叔父であることは、書く理由にならない。
辞退の書が都へ向かったのは、その月のうちだという。
皇甫嵩は、自分の出した上書のことを考えた。
粟を請う書は、二年前から数えて、五度出している。いちばん新しいのを出したのが、三月前だった。
辞退の書は、都へ向かう便に乗った。三月前に出した粟の請いは、まだ返事が無い。
――熹平三年(一七四年)、北地郡。
叔父が死んだ。
護羌校尉として任地にいて、そこで死んだ。七十一だった。
最後まで、羌を相手にしていた。
報せは、十日ほど遅れて北地に着いた。皇甫嵩は、そのとき県のひとつを回っていて、戻ってから受け取った。
その晩、官舎で、巻を三つ出した。
十八年前に塾の土間から持ってきたものである。詩が二巻と、易が一巻。紐は、結び直した跡で太くなっている。叔父の手元にあった巻ではない。同じ土間にあった、別の巻である。
巻を開かずに、しばらく置いた。
母は、もう何年も前に死んでいる。
北地へ来た年の次の年だった。報せが来たのが冬で、雪で道が閉じていて、葬いには間に合わなかった。そのときは、間に合わないということの意味を、あまり考えなかった。
いま考えた。
母も、叔父も、最後に会ったのは発つ日の門のところである。
母は道が曲がるまで立っていた。叔父は馬に乗って東へ行った。どちらも、こちらが見送る側だった。
叔父が左校から帰ってきた日のことを、思い出した。
門で迎えて、荷を受け取ろうとした。叔父は、名を呼んだ。呼んで、そのあとを言わなかった。皮の剥けた手を、袖の中に入れた。
あのとき、何を言おうとしたのかを、訊かなかった。
訊けば、答えたかもしれない。答えなかったかもしれない。
言いかけて言わなかったことを、とうとう聞かないままになった。




