第1話:厚い名簿
――建寧二年(一六九年)、涼州安定郡朝那。
名簿は、また来た。
前の年に来たものより厚かった。
都で百余人が獄に下されて死んだという。名の下に、続けて書いてあることのほうが長かった。妻と子は辺境へ移される。禁錮は五族に及ぶ。父の兄弟、母の兄弟、妻の父の家まで、官に就けない。
死んだ者、移された者、官に就けなくされた者。合わせて六、七百人になる。
皇甫嵩は、それを郡の箱へ入れる前に、一度通して読んだ。数えで三十三になっている。
范滂という名があった。
報せを持ってきた者が、その名のところで指を止めた。
「この男は、捕えに来る者が来る前に、自分から県へ出向いたそうです」
「逃げなかったのですか」
「県令が、印を投げ捨てて、一緒に逃げようと言ったと。断ったと聞いております」
そのあとで、母に別れを告げたのだという。
何を言ったのかは、報せには書いていない。書いてあるのは、告げてから行った、ということだけだった。
皇甫嵩は、箱を開けた。
去年の名簿が入っている。二百余人のときの分と、そのあとの追加の分である。
その上に、新しいのを重ねた。
厚さが、倍になった。
公車が来た。
三度目である。
一度目は四年前の太尉、二度目は去年の大将軍だった。二人とも、去年の秋に死んでいる。
こんどは詔だった。辟ではない。都へ来い、とある。
皇甫嵩は、返書を書かなかった。
書かずに、荷を作った。
持っていく物は少なかった。着替えと、筆と、墨と、巻が三つ。巻は叔父の塾から出たもので、十三年前に土間の隅に残っていた三十ばかりのうちの三つである。
発つ前の日、閔が役所から来た。
六年前に孝廉の名簿に名を書き、一年前に禁錮の名簿から名を消す手続きをした男である。眉の上に、古い傷の線がある。
「州へ出す書に、何と書きましょうか」
「詔に応じた、と」
「理由の欄が、今度もございますが」
皇甫嵩は、荷の紐を結んでいた手を止めなかった。
「空けておいてください」
閔は、返事を待つように立っていた。待って、何も言わずに帰った。
翌朝、発った。
見送りに来たのは母と、家の者が二人だった。母は門のところで立っていて、道が曲がるまで動かなかった。
なぜ今度は行くのかを、誰も聞かなかった。
――建寧二年(一六九年)、洛陽。
議郎という官だった。
帝に問われたら答える役である。問われなければ、何もしない。
皇甫嵩は、はじめのひと月、毎朝きちんと支度をして出た。官舎から宮城までは歩いて行ける。門のところで名を告げ、控えの室に入り、座る。
呼ばれなかった。
二月目に、同じ官の者が教えてくれた。議郎は三十人ほどいる。そのうち、実際に問われるのは、年に何人かだという。
「では、ほかの方々は」
「本を読んでおられる。議論もなさる」
「それが役目ですか」
「役目です」
三月目からは、呼ばれない日に市を歩くようになった。
洛陽の市は、朝那の郡の役所の前とは、比べものにならない。同じ道に、同じ物を売る店が二十も並んでいる。並んでいて、どれも売れている。
値を覚えた。
粟が一石でいくら。布が一匹でいくら。塩がいくら。
安定郡の帳面の数と比べた。同じ物が、こちらでは半分の値で買える。北地や安定へ運ぶ手間の分だけ、向こうが高くなるのだという。
官舎に戻って、窓から外を見た。
西のほうに、囲いのある大きな屋敷がある。塀が高く、木が植わっていて、中は見えない。誰の屋敷かを訊いたら、答えた者が話を変えた。
毎日そこを見た。
官舎の窓から西を見ると、囲いのある大きな屋敷がある。中は見えない。
――建寧三年(一七〇年)、北地郡富平。
北地太守に遷った。
北地郡は安定郡の北である。朝那からは、馬で四日ほど。郡の治所は富平にあった。
着いた日に、引き継ぎがあった。
前任者は、もう発ったあとだった。十日前に出たという。引き継ぎの書だけが役所に置いてあり、渡す者は属官の中でいちばん上の者だった。
帳面を受け取った。
その足で、蔵を見に行った。
合わなかった。
粟の石数が、帳面より少ない。布の匹数が、帳面より少ない。鉄は、帳面にある分がそもそも蔵に無い。
少ないほうは、まだ分かる。使ったか、出したか、失われたかである。
分からないのは、多いほうだった。
塩が、帳面より多かった。どの棚にも記載の無い甕が四つあり、中に塩が詰まっている。
「これは何ですか」
「存じません」
「帳面に無いものが、なぜ蔵にありますか」
「前の太守さまがおられたころからございます」
属官はそう答えた。嘘を言っている顔ではなかった。ほんとうに知らないのである。
書き置きを探した。
前任者は、合わない理由を書き残していなかった。書き置きそのものが無い。引き継ぎの書には、帳面の写しと、印の受け渡しの記録だけがあった。
その晩、官舎で風の音を聞いた。
朝那の風は、乾いている。ここの風も乾いているが、乾き方が違った。砂の粒が細かい。窓の桟に、朝までに薄く積もる。
どちらが正しいのかを、誰に聞けばいいのか分からなかった。
戸口を数え直すことにした。
郡の帳面にある数と、蔵の中身が合わない。合わないものを合わせるには、まず郡に何があるのかを知らなければならない。
城は六つしかなかった。
北地郡は、かつてはもっと大きかった。二十九年前、羌に押されて郡ごと馮翊へ下げられ、そのあと戻された。戻されたときに、いくつかの県が消えている。
六つの城を、順に回った。
県の吏と一緒に、戸ごとに当たる。姓名を確かめ、家の者の数を数え、田を見る。一つの県に七日から十日かかった。全部で二月ほどかかった。
数が出た。
三千百二十二戸。
一万八千六百三十七人。
皇甫嵩は、その数を二度書いた。一度目は下書きの紙に、二度目は帳面に。
書いてから、しばらく見ていた。
安定郡の朝那の県だけで、これに近い数がいたはずである。郡ぜんたいではない。県ひとつでである。
北地郡は、そういう郡になっていた。
羌の戦で人が減り、郡ごと内へ下げられ、下げられているあいだに戻らない者が出て、また戻された。戻ってきたのは、出ていった者の子か孫である。
これが、預かった郡の全部だった。
戸籍の巻を綴じ直した。
戸籍の巻は、一日で読み終わった。




