深夜の帳簿
蝋燭の芯が、じ、と小さく音を立てた。
書斎の扉を閉めた途端、夜会の喧騒が遠のいた。
四方を埋める書棚の他には、机上の燭台が二つ灯るだけの狭い部屋だ。
マルグリット・アーデンヴァルドは手袋を片方ずつ外した。絹地に残った指先の熱が、夜気にすぐ冷えていく。机の端に重ねて置く。
続けて耳飾りを外そうとした指先が、ほんの一拍だけ止まる。
今夜、婚約者だった男の顔が一瞬よぎったせいだとは認めたくなかった。
冷たい耳飾りを外し、髪を結い上げていた飾り紐をほどいた。
夜会の令嬢から深夜の書斎の主へ。衣装を替えるより早く、彼女はそうやって装いを解いていく。
物心つく前から傍にいるアネットにだけは、この手順を隠す必要がない。
「お茶をお持ちしました」
アネットが盆を手に扉から顔を出す。婚約破棄という大仕事を終えた安堵からか、その声はいつもより幾分軽かった。
「そこに置いてちょうだい」
湯気の立つ盆が、帳簿の脇にそっと置かれる。アネットはすぐには下がらず、主の横顔をうかがった。
「あまり根を詰めすぎませんように。……以前も、そう申し上げましたのに」
「今度は本当よ」
「目が笑っていらっしゃいませんけれど」
図星を、マルグリットは口の端だけの笑みで受け流した。長く仕える侍女には、この手の嘘は通用しない。
「昔から、そうでしたわ」
「耳が痛いこと」
遠慮のなさを許しているのは、この部屋でだけだった。令嬢を演じ疲れた耳には、その小言がむしろ心地よい。
「今夜は婚約破棄まで済ませてらしたのに、休まれないのですか」
「休むのは、片づいてから」
「その片づく日は、いつ来ますの」
「さあ、どうかしら」
答えになっていない答えに、アネットは小さく息をついた。慣れたものだった。
「もう下がってちょうだい」
「かしこまりました。あまり無理なさいませんように」
アネットが一礼して去ると、書斎には蝋燭の爆ぜる音と紙をめくる音だけが残った。
机の上には、帳簿の束が三つ積まれている。積み上げた紙の重みで、机板がわずかに軋んだ。
徴税記録。領地台帳。そして王宮金庫の出納記録。
どれも本来、公爵令嬢が目にできる立場のものではない。
出所を問われれば、答えるつもりはなかった。
借金の取り立てが病弱な母親にまで及び、誰にも相談できずにいた財務省の小役人を一人だけ選び、袖の下で抱き込んだ。
口の堅さと弱みの両方がある者でなければ、任せられない。
深夜の当直交代の隙を突き、写しを取ってはすぐに原本を書庫へ戻させる。時間をかけて少しずつ運び出させたものだ。
いつか露見する日が来ることは承知の上だった。関わる者は、その一人だけでいい。
マルグリットは一番上の徴税記録を開いた。古いインクと紙が乾いた匂いが、鼻先をかすめる。
「あら」
マルグリットは誰にともなく呟いた。
「これは……」
数字の並びに、視線が止まる。
ある領地の申告収穫高と実際の納税額の比率が、隣の領地と比べて明らかにいびつだった。
領地台帳を引き寄せ、同じ土地の記録と突き合わせる。土地の広さと作付けの種類を目で追う。
去年までの平均収穫量に、羽根ペンの先でそっと線を引いた。
どれも大きな変化はない。なのに、今年だけ申告収穫高が三割も低い。
その数字だけに、羽根ペンの先でそっと丸を付けた。
「杜撰、というより作為的ですわね」
「三割も水増しとは、ずいぶんな度胸」
扇の代わりに握った羽根ペンの先が、小さく震えた。
王宮金庫の出納記録を照らし合わせる。
その差額に見合う額が、別の名目でこの地の徴税を任された役人の懐に流れているのが見えてくる。
「これで、一つ目」
「まだまだ、これからですわよ」
紙が擦れる音がして、二枚目の徴税記録が開かれる。今度は隣接する二つの領地の記録を並べ、道路整備費の申請額を見比べた。
片方はエルバ村の分、実際の距離に見合うおよそ二千G。
もう片方――隣接するラント村の記録は、同じ距離のはずなのに四千Gに近い額が計上されている。
「倍近く、ですって」
眉が、わずかに跳ねた。声にはうっすらと苦笑がにじんでいる。
「――二つ目、ね」
最後に、王宮金庫の出納記録の中ほどを開く。「灌漑設備使用料」という項目が、同じ地域から二度計上されていた。
ペンを持つ手が、しばし止まる。
井戸使用料と用水路使用料――名目を分ければ、同じ実体でも別物として二重に請求できる。
「見事なまでに、丁寧な仕事」
思わず、小さく息が漏れた。呆れとも感嘆ともつかない吐息だった。
「あら、これは芸が細かいこと。半分は褒めていますわ」
「知恵を回す先を、間違えていらっしゃるのに」
羽根ペンを持つ指先が、わずかに弾んだ。
声には、呆れよりも面白がる響きの方が強かった。
「三つ目まで見つかるとは思っていませんでしたのに」
初めてこの手の帳簿を目にしたとき、マルグリットは驚かなかった。半年前のことだ。
地方から届く陳情の中に、モローという名だけが不釣り合いなほど頻繁に混じっていた。
それに気づいていたからこそ、むしろ予想が的中したことに小さく笑った。
あの晩から誰にも打ち明けず、一人で積み上げてきた重みが、笑みの下にわずかに沈んでいる。
時折、これで本当に間違っていないのかと自問する夜もある。だが、立ち止まれば築いてきたものすべてが振り出しに戻る。
数字の並びが上滑りする、あの引っかかりを聞き分ける耳は、幼い頃から鍛えてきた。
問題は、これをどう扱うかだった。公爵令嬢が国庫の不正を嗅ぎ回っている――そんな噂が立つのは、まだ早い。
だから、噂を育てた。
――あれは、半年前。隣国カルステンの大使を招いた夜会でのことだった。
「噂くらい、いくらでも差し上げますわ」
「まあ、殿方の扇を取り上げてそのまま笑いものになさるなんて」
驚いた顔の令嬢――カルステンの大使夫人が、扇の陰で連れの侍女と目配せを交わすのが見えた。
マルグリットはそれに気づかぬふりで、にっこりと笑ってみせた。
「あら、退屈しのぎですもの。面白がってくださったでしょう?」
「え、ええ……」
「お気になさらず。性格の悪いことで、少しは有名になれますもの」
悪意はなかった。だが、狙いはあった。次の日には「アーデンヴァルド嬢は少々意地が悪い」という噂が、社交界の隅々にまで届いていた。
――あるいは、三月前。伯爵夫人主催の薔薇園でのお茶会。
「アーデンヴァルド様は、刺繍がお得意ではないのですね」
「あら、お恥ずかしい限りですわ」
差し出された見本を、マルグリットはわざと下手な手つきで縫い進めた。ひと針ごとに、糸をほんの少しずつ引きつらせて。
「得意なことばかりでは、皆様が退屈でしょう」
「まあ、お上手なことを仰いますのね」
「本当に、お上手になりたいとはお思いになりませんの?」
「いいえ、ちっとも」
悪びれない即答に、令嬢たちが顔を見合わせた。その場は笑いで収まったが、翌週には「あの令嬢は淑女の嗜みも満足にできない」という評判が、貴族院の噂話にまで上っていた。
小さな悪評を、一つずつ積み上げる。婚約者の顔を潰すような我儘を重ね、令嬢たちの噂話にわざと乗る。
「無能で我儘」だと誰もが思うように、少しずつ、根気強く。
今夜の婚約破棄も、その延長線上にある一場面に過ぎない。
回想はそこで途切れ、羽根ペンの重みが再び手のひらに戻ってくる。
「便利な猫かぶりですこと」
「我ながら、よく続くものね」
独り言のように呟き、マルグリットは羽根ペンを取った。今夜確認した三つの矛盾を、几帳面な字で書き写していく。
一つ目の名義人だけは、繰り返し目にしてきた名だった。モロー、地方を治める徴税官の一人――ここ数か月、この名が不自然なほど頻繁に帳簿に現れる。
社交界では「実直で通っている」との評判しか耳にしたことがない名だ。残る二つの名義人には、まだ見覚えがない。
「あなた、そろそろ本命かしら」
モロー。半年の間に、これほど繰り返し同じ名が紛れ込む帳簿など、そう多くはない。証拠の薄さが、少しずつ厚みに変わりつつある。
名を口の中で転がすように、もう一度呟く。答える者は、どこにもいない。
「――ふふ。すっかり堂に入った、この一人問答」
誰にも打ち明けられない企ては、こうして自分で自分に相槌を打つよりほかにない。今はまだ、これだけ。だが、いずれ。
紙面を睨んだまま、口の端だけが笑った。呆れているのではない。この気の長い遊びを、彼女はむしろ楽しんでいる。
「けれど、退屈はしませんわ」
この程度ではまだ足りない。だが、積み重ねていけば、いずれ動かしようのない証拠になる。
どこかで、夜番の交代を告げる鐘が遠く鳴った。
最後の一行を書き終えたところで、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、そろそろ――」
「わかっているわ」
「本当に、わかっていらっしゃいます?」
「たぶん」
扉越しの声に、マルグリットは羽根ペンを置いて目頭を押さえた。指先に、微かな疲労の重みが残っている。
「頼りない、たぶんですこと」
「それは否定しないわ。……あと少しだけ」
「毎晩、そう仰います」
アネットの声に、呆れと心配が半分ずつ滲んでいた。
「今夜だけは、本当にあと少しなの」
「……本当に、毎晩そう仰るんですのよ」
「今夜は特別」
「先週も同じことを仰いました」
扉の向こうで、小さなため息が長く尾を引いた。
「アネット」
「はい」
「早く起こすようにと言っておいたはずが、その必要はなくなったわ。書類は、今夜のうちに片づいたから」
「まあ」
扉の向こうの声に、微かな驚きが混じる。それ以上を問わないのが、この侍女の良いところだった。
「今日の予定は」
「昼過ぎに、伯爵夫人方とのお茶会が一件。それだけです」
「結構よ。あの方は噂話がお好きだから、有益な話が拾えそうね」
「期待なさりすぎませんように」
その軽口を最後に、廊下の気配が去りかけた。マルグリットは、少しだけ目を伏せた。
「アネット。……ありがとう」
「……何をです?」
「さあ、何かしら」
答えにならない礼に、扉の向こうで小さく笑う気配がした。
「変なお嬢様。でも、嫌いではありませんわ」
「知っているわ。あなたも、おやすみなさい。今日はよく働いてくれたわ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
足音が遠ざかっていく。
マルグリットは帳簿を閉じ、鍵のかかる引き出しにしまった。
もう一晩。積み上げる時間が、また一つ終わった。
次にどこを崩すべきか、もう頭の中にある。モローの周りを固めている者たちの名も、いずれ一人ずつ書き写すことになるだろう。
相手がこちらの動きに気づくのが先か、証拠を積み上げ切るのが先か――それだけが、まだわからない。
窓の外が白む頃。
燃え尽きかけた蝋燭の芯が、最後に一度だけ大きく揺れて消えた。
こんにちは、藤野かなめです。
にこにこ笑っていた彼女が、実は夜な夜なこんなことをしていた――というギャップ、楽しんでいただけたでしょうか。悪女の噂も、実は本人がせっせと育てたものでした。
数字のわずかな食い違いを彼女がどう料理していくのか、これからじっくり書いていきます。
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